随 想(思いつくまま)

(8/16) 原爆投下の周辺事情(その2)
広島のKから次のメールが届いた


実は、7月23日から30日までドイツに行ってきました。
ひょっとして7月26日付の朝日新聞(広島では、3面に)でご承知かもしれませんが、7月25日ドイツのポツダム市にある「ヒロシマの広場」に、記念碑が建立され、完成式がありました。その式に参加するため、ドイツを訪問しました。
ポツダム市は、2005年にポツダム会談(1945年)に出席をした米大統領トルーマンが宿泊した建物の前の広場を「ヒロシマ広場」と命名しました。
その後2007年ごろから、この広場に記念碑を建設するための市民運動「ポツダム・ヒロシマ広場をつくる会」がつくられ、活動を続けていました。
ヒロシマでもそれを支援するため同名の組織がつくられ、一人の人が世話人となりカンパ活動が行われていました。ところが、その人(同じマンションに住み、前からの知り合い)が、2008年11月に突然死され、私がその後を引き受けることになり、世話をしてきました。
特に今回の記念碑は、私の提案から広島、長崎の被爆石が使われることになり、今年初めドイツに向け、発送しました。広島は、広島電鉄の路面電車の敷石。長崎は、山王神社(片足の鳥居がある)の境内の石。
付け加えれば、世界中に、ヒロシマやナガサキの名称が付いた場所や記念物がありますが、広島、長崎両市の被爆石がモニュメントに使われているのは、世界で初めてのことだと思います。(ポツダム市は、今秋以降広場の名称を「ヒロシマ・ナガサキ広場」と変える予定。議会の承認が必要)(末尾に注記を追記)
そんな経過があり、ドイツを訪問することになったのです。
なぜ7月25日かと言えば、米軍がトルーマン大統領の命によし、正式に投下指令を出した日だということです。

写真を3枚だけ貼付します。
写真の解説は
ヒロシマ広場8−1
       トルーマン大統領が泊まった   建物
 ヒロシマ広場K−13
       記念碑前の私と一緒に行った友人
       手に持っている折鶴は、ドイツの学生が
       折ったもので、広島市と長崎市に届けた
 ヒロシマ広場K−7
       記念碑 後の横長の石は36tの大きな 
      物(ノルウェーから運んだ)
      手前の石に独、日、英語で、銘文が刻ま
       れている。名盤の上部の石は、向かって
      右が広島、左が長崎の被爆石      



 7月25日前後の朝日新聞を当たってみたが、東京版にその記事は載っていなかった。トルーマン大統領の投下決断に関して書かれた本の読後感(随想)を紹介したところ、次のメールが届いた。
 
 
「原爆投下の周辺事情」読みました。
この文章の中、「失われたかも知れない多くの人命」として100万人という数字が使われていますが、この件に関しておもしろい論文がありますので、ご紹介します。

本のタイトルは「広島から世界の平和について考える」で、広島大学文書館編、出版社は現代資料出版、発行年は2006年7月25日です。

その中の「第三章 原爆投下の歴史的意義 一 原爆投下を正当化する論理 3人命節約論について」で、救われた人命の数字が変遷していく歴史が書かれています。
詳しくは、この本をよんでいただきたいと思います(図書館が持っていると思います)が、興味深いことが書かれています。

例のスミソニアン博物館でのことです。
マイルズという人が、修正勧告を出していますが、そこでは「2万人を超えることはない」としています。
これを受けスミソニアン博物館は「4万6千人を超えることはない」と、一応学会のシュミレーションとして、なっています。

ところが、政府及び世論は、早期終結人命節約論を支持する傾向になっている。
原爆を落とした当時のイギリス首相チャーチル(7月26日に交代するのですが)の回顧録によると「50万人のアメリカ兵、その半分のイギリス兵」という数字が出てきます。
アメリカのトルーマン大統領は、「50万のアメリカ兵」。チャーチルと奇妙に一致する数字です
それがその後エスカレートして1985年レーガンは「100万人以上」。そしてブッシュ父にいたると1991年12月1日の見解では「何百万の命」となっているのです。

これは、布川弘(広島大学大学院総合科学研究科教授 1958年生れ)氏が、2005年に広島大学が公開講座を行ったときに話された内容を文章化したもののようですが、参考になればと思います。

米国の原爆投下正当論の多くが「早期終結人命救助論」を背景としていますから、おもしろい研究だと思います。

ホームページ「原爆投下の周辺事情」を読みながら、この件、確かにどこかに書いてあった(私の講演会でも使った)なと思い、本を探していて遅くなりました。
もし時間があれば、本を探してみてください。

 敢えて「読書」の項目に再録することとした。

追記
 広場の名称について新しいメールが入ったので追記する。


それから、これはポツダム記念碑の余話ですが、こんなことがありました。
 被爆石の件ですが、私は当初「ヒロシマ広場」となっているから「広島の被爆の石を送ります」と提案しました。ところが、それをドイツでモニュメントの作成者である石の彫刻家「藤原信」さんを交えて協議している時、たまたま藤原先生の教え子で、広島市立大学の卒業生がいたそうです。彼女いわく「どうしていつもヒロシマばかりですか。長崎はないのですか」と発言したそうです。実はその彼女、広島市立大学卒業ですが、長崎出身者だったのです。その一言から、長崎の被爆石も同時に設置しようということになり、長崎の被爆石探しが始まりました。市役所や広島と同じ路面電車の長崎鉄道など問い合わせましたが、なかなか見つかりませんでしたが、前に書いた山王神社の好意で、長崎の被爆石も送ることができるようになりました。それにもさらに余話があって、作成者の藤原先生が昨年の秋に日本に帰国(ドイツとノルウェーで活動)された時、長崎に行かれたのですが、たまたま山王神社の秋祭りで、氏子の皆さんが集まったおられ、そこでお願いし、承諾を得ることができたのです。何もかもが幸運なことでした。
さらに、二つの被爆都市の石が並ぶから、公園の名称を変えようという話も出たのですが、碑の建設でも色々意見が出るので、後年の名称変更は「碑が完成した以降にしよう」ということでとりあえず、今年の7月25日は「ヒロシマ広場」の名称のまま碑の建設をしました。