大団円を目指して


第21話 「決断」



 衣擦れの音で、士郎は目を覚ました。
 いや、正気を取り戻したというべきか。
 キャスターに暗示を掛けられ、正に搾り取られるといった表現に相応しい行為に励んでいた、というか励まされていた士郎であった。
 音のする方向に目を向けると、背を向けたキャスターが服を着込んでいる最中だった。
 髪をかき上げる彼女の仕草に、士郎は妙な色気を感じた。

「フゥ……あら、気付いたみたいね。どう、気分は?」
「……最低だ」
「あらあら、そこまで貧相な身体をしているつもりはないんだけど……」
「そうじゃない」

 キャスターの言葉を、士郎が遮る。
 その言葉からは、少々怒気が感じられた。

「前にも言ったけど、好きでもない男とこんな事をしちゃ、駄目だ」
「前にも言ったけど、こっちは命が掛かっているの。もう死んでるけどね」
「それでも……」
「それでも、何? こんな事をするよりは、貞操を守って死ねって事?」
「それは……」
「酷い事を言うのね、坊やは。死にたくないと思う事が、そんなに悪い事かしら?」
「……」
「何より、好きでこんな事をしている訳じゃないの。それだけは理解して欲しいわ」
「……」
「……」
「キャスター」
「何?」
「俺……責任取るから」
「ハァ!?」

 士郎の唐突な言葉に、キャスターは驚きの声を上げた。

「せ、責任って……貴方なに言ってるのよ?」
「だから、こんな事をした責任を考えている」
「あのねえ、この程度の事でいちいち責任なんか……」
「この程度の事、なんて言っちゃ駄目だ」
「あ、あのねえ……坊や。貴方、責任って言葉を軽く考えていない?」
「そんな事ないぞ」
「そんな事あるわよ。なら聞くけど、坊やは私にどう責任を取ってくれるのかしら?」
「そりゃあその……結婚、とか」
「ハァッ!!?」

 士郎の再度の唐突な言葉に、キャスターは再び驚きの声を上げた。
 随分と大きな声だった。

「な、なに言ってるのよ! 私はサーヴァントなのよ!? サーヴァントが結婚だなんて……!!」
「そんなの関係ないぞ。だってキャスターは女の人じゃないか」
「そういう事じゃなくて……ハッ!?」

 ――――いけない、また坊やのペースに巻き込まれてる。

 そう気付いたキャスターが、冷静になるべく一つ咳払いをする。
 コホン。
 とにかく今は落ち着かないと……
 士郎が、自分をサーヴァントとしてではなく人として見ているのは、既に分かっていた事だ。
 全ては無知故の錯覚である。
 実にどうしようもない。
 だが、都合は良かった。
 この錯覚は大いに利用すべきと、キャスターは素早く考えを巡らせる。
 が、しかし……
 どうも上手く考えがまとまらない。
 そのまま彼女は、ゆっくりと言葉を選ぶよう話し始める。

「……言ったわよね。私には叶えたい願いがあると」
「ああ、聞いた」
「その為に、私はここにいるの。ハッキリ言ってしまうけど、坊やの相手をするつもりは無いわ」

 ましてや、結婚など。
 魔女たる自分が、結婚など。
 あり得なかった。

「そっか……そりゃそうだよな。俺、坊やだし」
「そうじゃなくて……ッ!
 いえ、そうね。そうよ、そういう事。坊や如きが私の伴侶だなんて、図々しいにも程があるわ」
「……」
「悪いわね、本当の事を言って。でも勘違いして欲しくないのよ。悪いけど」
「いや、良い。俺が未熟だって事は、十分承知してるし」
「そう。なら良いわ。ええ、勘違いしていなければ、それで別に……」
「だから俺、頑張るよ」
「ハァ!?」
「キャスターに認めて貰えるように、頑張る」
「だから、そういう事じゃなくて――――ッ!!」

 言っている最中に、キャスターは改めて気付く。
 士郎が、こういう男である事を。

「――――いえ、そうね。」

 そう、どうせ使い捨てのマスターなのだ。
 ならば、錯覚を正す必要など何処にもない。
 精々、頑張って貰えば良いのだ。
 ならば気分を害するような事を言う必要も、ない。
 気分良く、自分の駒として働いて貰えば良いのだ。

「……なら、私を勝利に導いてくれるかしら?」
「俺は半人前だからその約束は出来ないけど、精一杯努力する事は約束する」
「信じるわよ、その言葉。あんな馬鹿げた事を八年も続けていた坊やだからこそ、この私が信じてあげるの。感謝なさい」
「そうか。でも駄目だと分かったら、遠慮なく見捨ててくれ。足手纏いにはなりたくない」
「…………」

 キャスターは、何とも言えない表情を浮かべる。

「俺、何か変な事を言ったか?」
「……最初から坊やは足手纏いよ」
「グッ……そうだった」
「ええ、そうよ……フフッ」

 ――――全く、この坊やは……

 苦笑を漏らすキャスターだったが、この時からかもしれない。
 彼女が、士郎という男自身に興味を持ったのは。

「とにかく、言ったからには
死ぬ気で頑張って頂戴。言っていなかったかもしれないけど、私はサーヴァント中最弱だから」
「そうなのか?」
「そうよ。特にセイバーには勝てる気がしないわ。選ばれる英霊にもよるけど、セイバーのクラスは対魔力のスキルが凄いのよ。魔術が通用しないんじゃ、正直お手上げだもの」
「そうか。なら罠に嵌めるしかないか……」
「えッ?」

 士郎のこの言葉に、キャスターが驚きの声を上げる。

「ん? どうしたんだ、キャスター?」
「……いえ、少し驚いたのよ。坊やが罠だなんて事を言い出すから」
「別に、普通だろ? 正面から行って勝てないんなら、搦め手を使うしかない」
「そうなんだけど……いえ、その通りよ、坊や。そう言って貰えるとありがたいわ」
「あ、言っておくけど他の人を巻き込むのは駄目だからな。あくまで、俺達だけでの話だぞ」
「……でしょうね」

 ――――坊やは、所詮坊やか。

 キャスターは肩を竦めながら、クスリと笑った。
 不思議と優しい笑みだった。

「なら、まずは坊やをまともにしないといけないわね。責任を取って貰う為にも」
「ああ、頑張る……って、まともじゃないのか、俺って?」
「あのねえ……ええ、全く。本当に全く。これ以上無いってくらいに全くよ」
「……そうか」
「落ち込まないの、分かっていた事なんだから。まあ、この私に任せなさい。少しはまともにしてあげるから」
「分かった、頼む」
「ええ、頼まれたわ。そんな訳で、まずはこれを飲みなさい」

 キャスターが、ローブの内側から小瓶を取り出した。

「前にも言ったけれど、とにかくスイッチを作らないと魔術師としては話にならないの。この薬はそれを作る為のものよ。ただ……」
「分かってる。気絶する程キツイんだろう?」
「そういう事」
「大丈夫だ。キャスターを勝たせるって言ったんだ。このくらいの事で躓いてなんかいられない」
「当然よ。言った言葉には、責任を取りなさい」

 そして士郎は小瓶を手に取り、一気に中身を飲み干した。

「ん……マズイな、これ」
「美味しい訳ないじゃない。気の抜ける事を言っていないで、気を落ち着けなさい。すぐに来るわよ」
「来るって……グッ!?」

 士郎が疑問を発しかけた矢先、その異常はやってきた。
 身体が燃えるように熱くなり、手足の感覚が麻痺していく。
 背中には痛みとしか思えない熱さが固まり、意識を眉間に集中しなければすぐにも気絶しそうな程だ。

「――――こ、これ、は……」

 知っていた。
 士郎は、この感覚を知っていた。
 これは、失敗。
 魔術回路を自分に組み込もうとして、失敗した時に起こる、身体の反発そのもの……
 では無い。
 いや、確かにそれでもあるのだが、別の感覚としても士郎は知っていた。
 この感覚は覚えがある。
 経験が、ある。
 この感覚は、前に、確かに――――

「苦しいでしょうけど耐えなさい。耐えていれば少しずつ楽になるから。もっとも体の熱だけは二、三週間続くだろうけど、坊やなら大丈夫よね?」

 にこやかに笑いながら、キャスターが言った。
 彼女は、とても楽しそうだった。
 そんな彼女に対し、士郎は何も言い返せない。
 そんな余裕は、無い。
 士郎はただ集中している。
 耐える為に。
 言った言葉には、責任を取らなければならない。
 そうでなければ、キャスターからの信頼は永遠に得られない。
 信頼を勝ち取る為にも、ここは是が非でも耐えなければならなかった。
 自分がキャスターから全く信頼を得ていない事は、坊や呼ばわりされているだけに否が応でも分からされている事なのだから。

「スイッチの説明はしたわよね。こんな馬鹿馬鹿しい説明、二度もするつもりはないけど、その時にスイッチのイメージは出来た筈よ。勿論それは覚えているでしょう?」

 士郎は深く呼吸を繰り返し、気を落ち着ける。
 自分を抑えてさえいれば、状態が悪化する事はない。
 士郎は、それを知っている。
 ゆっくりと息を吐き、手足の神経を、感覚を、少しずつ取り戻す。

「長い間閉じていたスイッチを強引にこじ開けたのだから、ツライのは当然よ。でも我慢なさい。坊や自身の力で切り替えるしかないの。それが出来れば、坊や。貴方は魔術回路を操れるようになる」
「……分かってる。大丈夫だ」
「嘘ッ!?
 ……成る程、もう喋れるのね。さすがというか、自身のコントロールは上手いのか……
 見直したわよ、坊や。なら思ったより早く元に戻れるわ。スイッチそのものは、早く楽になろうと体の方で勝手にオフにしてくれるから。あとはそのスピードを自分の意志で速くするだけ。理解した?」
「いや、全然」
「……」
「でも大丈夫だ。スイッチのイメージは出来た」

 士郎のイメージ。
 それは、撃鉄であった。
 カチン、と頭の中で打ち付けられていた撃鉄が戻り、体を奔らせていた熱が急速に冷めていく。

「ふぅん……本当に大したものね。今までスイッチの無かった半人前とは思えないくらいに。何かあるのかしら、坊やには」
「何だそりゃ。別に隠し事なんてしてないぞ、俺」
「それは信用してあげるけど、自分で気付いていないだけかもしれないでしょう? 坊やは特に」
「ウッ……そりゃ、そうかもしれないけど……」
「まあ、良いわ。曲がりなりにも私のマスターなんだし、私を勝たせると言ったんだから、このくらいはして貰えないとね。というより、これでようやく坊やは魔術師を名乗れるようになったの。それは理解している?」
「ああ、キャスターには感謝してる。俺、スイッチなんて知らなかったし、キャスターがいなきゃ、たぶんずっとあのままだった」
「分かっているなら良いのよ。そうね、半人前以前に魔術師と言えなかった坊やをまともにしてあげたんだから、まあ、感謝するのは当然といえば当然よね」

 つらつらと言葉を重ねるというか押し付けるキャスター。
 照れ隠し、と言いたいところだが、おそらくは本気で言っているのだろう。
 残念。
 しかし士郎は、素直に感謝していた。
 だから、ぼんやりと思っていた言葉がぽろりとこぼれ出た。

「なんだ、キャスターって良いヤツだったんだな」

 その言葉を聞き、照れると思いきや苦い顔をするキャスター。

「何よ、それ……坊やが私の事をどう思っていたか、よおく分かったわ」
「あ、いや、別に悪口を言った訳じゃないぞ」
「なら素直な気持ちって事じゃない。なお悪いわよ」
「ウッ……」
「あらあら坊や、どうしたの? 痛い所を突かれたような顔……」
「そういえばキャスターの願いってなんなんだ!?」
「え……?」

 誤魔化すように言われた言葉。
 しかしキャスターは、不意を突かれたように言葉を途切らせる。

「……私の、願い」

 それは……
 ……復讐。
 そう、復讐……の筈だ。
 自分を魔女に仕立て上げた奴等への、復讐。

 ――――本当に?

「坊や」
「あ、悪い。言いたくないなら、別に……」
「寝てなさい」

 暗示を掛けられた士郎は、三度(みたび)あっさりと気を失った。
 懲りない男であった。

「忘れていたけど、坊やの事で色々と調べたい事があったのよ。色々とイジるからその間は退屈でしょうし、寝ていた方が良いわ」

 平坦な声でキャスターはそう告げた。
 誤魔化した訳ではない。
 色々と調べたい事があるのは本当だ。
 復讐が願いと言えなかっただけ。
 そんな事を言えば、また色々とうるさく言われるのは分かりきった事だから。

 ――――本当に?

 だが今キャスターは、己の願いに疑問を持った。
 持ってしまった。
 キャスターがこの聖杯戦争に趣くのは、当然の事だが叶えたい願いあっての故である。
 戦う為の根本的な理由に疑問を持っては戦えない。
 いや、疑問など持ってはいない。
 自分の願いは、復讐。
 そう。

「復讐、の筈よ……」

 キャスターは、自身を説得するかのように自らの願いを口に出す。
 しかし、どうも今一つ考えがまとまらない。

「……まあ、良いわ」

 その事は一旦棚上げとし、キャスターは士郎の身体を調べ始めた。





「27本……」

 茫然とキャスターは呟いた。
 半人前の魔術師が、27本もの魔術回路を持っていた。
 今までスイッチの存在すら知らなかった魔術師がだ。
 更に言うなら、魔術刻印を受け継いでもいない魔術師がだ。
 つまりは、自分自身で魔術回路を作り成したという事だ。
 魔術師でない人間も、魔術回路を持っている事はままある。
 しかし、それは精々が一、二本。
 なのに、代を重ねた訳でもない、謂わば初代である士郎が27本。
 あり得なかった。
 しかも……

「何よ、属性が剣って……」

 自分の常識とは、余りにもかけ離れていた。
 本格的に調べたくなったが、これ以上は魔力が足りず、魔力不足の現状が歯痒い。

「本当に何なのよ、この坊やは……あり得ないわよ、こんなの……」

 キャスターは戸惑い、困惑し、そしてイラついた。
 キャスター足る自分が理解出来ない事に、士郎に、自身に、心底イラついた。
 見れば士郎は未だ気を失っており、その顔は実に平和そうだ。
 気絶というよりは、まるでスヤスヤと気分良く寝ているようである。
 ムカついた。
 キャスターは、とてもムカついた。
 だから士郎の股間を、ぐにゅりと踏み付けた。
 少しだけスッとした。



「イッテェ――――ッ!!」



 股間を踏み付けられた士郎が、唐突かつ途轍もない痛みに跳ね起きる。
 イテェイテェと喚きながら股間を押さえつつゴロゴロと土蔵の床を転がる様は、どう言い繕おうとみっともない事この上なく、余りの情けなさ故見ている者の涙を誘う程に、悲しくも惨めな姿であった。

「何しやがんだ、この馬鹿トラァッ! ……って、あれ?」

 ようやく状況を把握したのか、股間を押さえながらも勢い良く立ち上がったは良いが何気に内股の士郎が、キョトンと目を丸くする。

「もしかして……っていうか、もしかしなくとも、今のはキャスターが……」
「知らないわ」
「嘘吐け! ここには俺とキャスターしか……!」
「知らないわ」
「だから他には誰も……!」
「私は何も知らないわ」

 眩しい程の素敵な笑顔で答えるキャスター。
 その笑顔がとてつもなく恐ろしく見えたのは、士郎の気のせいではないだろう。絶対に。

「分かった、もう良い……そういや藤ねえは?」
「なに寝惚けているのよ。大河は一旦家に戻ったでしょう?」
「あれ……ああ、そういやそうだった」
「でも、そういえば大河遅いわね」
「え……ちょっと待て。いま何時だ?」

 土蔵の中に時計は無いが、開けっ放しだった扉から外の様子は伺えた。
 開けっ放しのままあんな事をしていたのかとも思うが、生憎と今はそれ所ではない。
 気を取り直した士郎が改めて外の様子を見るが、既に夜はとっぷりと更けていた。
 天には月が煌々と輝いている。

「……藤ねえ、いくらなんでも遅くないか?」
「そうねえ、遅いといえば遅いけど、別に子供じゃないんだから……」
「俺、ちょっと迎えに行ってくる!」

 そう言うやいなや、士郎は土蔵を走り出た。
 ちなみに服は、きちんとキャスターが着せていたりする。
 全裸で夜の街を疾走といった公然わいせつ罪は、どうやら避けられたようである。
 士郎はチビだがデカイのだ。
 ちなみに、一物を晒してという意味でのわいせつ物チン列罪というのは、あくまでシャレなのでご注意を。

「ちょっと、坊や! 大河はあくまで一般人なんだから別に狙われたりは……もう!
 坊やの属性は剣よ! 覚えておきなさい!」

 走り去る士郎の背中にキャスターが声を掛け、「分かった」という返事が微かに聞こえた。

「まさか、一人で飛び出すなんてね……今は戦争中だっていうのに、全くもう……ホント、お暑い事で」

 やれやれと、一人溜め息を吐くキャスター。
 その顔は優しげながらも、何故かしら影が射していた。

「さて、と。私もついて行かないとね……って、そんな必要ないじゃない。なに言っているのかしら、私……
 そうよね、坊やはあくまで繋ぎのマスターなんだし、そんな必要ないわよね……」

 ぶつぶつと独り呟くキャスター。
 その姿は見ていて少々怖い物がある。
 それだけ深刻に考え込んでいるという事だろうか。

「……まあ、何かあったら令呪で呼ばれるだろうし、大丈夫か……そういえば、令呪の説明ってしたわよね?」

 無論、していなかった。





 藤ねえは、家を飛び出してから割りとすぐに見付かった。
 そして、殺され掛けていた。
 見知らぬ男に、槍を突きつけられている藤ねえ。
 ほんの少しだけ、戸惑った。
 目の前の光景が、理解出来なかったから。
 何故、藤ねえが。
 何も悪い事をしていない藤ねえが、何故。
 戸惑いは瞬時に怒りに変わる。
 何も考えられなくなるくらいの、視界が真っ赤に染まるくらいの、初めてかもしれない、激しい怒り。
 自分の姉が。
 大切な姉が。
 見知らぬナニかに、今にも殺され掛けていた。
 瞬間。
 何もかもが、スローモーションのように感じられた。
 激烈に加速する思考。
 円還状に速度を増したそれは、火花を散らし軋みをあげ、そのカタチを悪魔めいた速度で作り上げる。

“――――二度と使わないようにね。投影は、アンタの手に余るから――――”

 ■■の言葉。
 聞いた事のない筈のそんな言葉が、何故か頭を横切った。
 度を過ぎた魔術は、術者そのものを廃人にするという。
 だが、それがどうした。
 そんな事より、藤ねえの方が大切だ。
 それさえ出来ないっていうなら、藤ねえを守れないっていうなら、こんな頭なんていらない。壊れて良い。

 頭の中に、激鉄が横にズラリと並んでいた。
 列を成すように次々と撃鉄が上がり、

 今までずっと傍にいてくれた。
 今までずっと支えてくれた。
 なのに、守れないなら。
 藤ねえを守れないのなら――――

「助けて、士郎ォ――――ッ!!」

 ――――衛宮士郎は、今ここで死ねッ!!

「藤ねえぇ――――ッ!!」

 そして一斉に引き金を、引いた。

 火が点いて転がり回る脳髄を押さえ付け、意識を束ねる。
 イメージするものは、ただ一つ。
 投影を八節に分け、知らない筈の剣を複製する。
 両手に固い感触。
 肉眼で確かめるまでもない。
 初めての筈の剣製は、ただ一度の減速もなく成功した。

 突進する。
 つまらなげにこちらに視線を向けたナニかが、無造作に槍を突き出した。
 完全に、こちらを甘く見ている。
 これは、好機だ。
 ナメられている事に、付け込む。
 そして藤ねえを助ける!
 繰り出された槍の軌道が、ハッキリと見えた。
 遅いッ!!
 俺はその槍をギリギリで避け、手に持つ■■・■■を相手に叩き付け――――

 ――――あれ?

 何故だろう。
 見えていた筈の槍が、気付けば俺の胸を突き刺していた。
 どうして。
 見えていたのに。
 ハッキリと見えていたのに。
 なのに、避けられなかった。
 何故……ああ、そうか。
 身体がついていなかったんだ。
 理解した途端、全身から力が抜けた。
 地面に両膝をつき、ごぽりと口から血を吐いた。
 ふと、藤ねえと目が合う。
 目がかすれてよく見えないが、合った気がする。
 だから、言った。

「逃げろ、藤ねえ……」

 心の底から、願いを込めて言った。
 もう、こんな事しか言えなかった。
 そうして俺は、意識を失った。





「士郎……嫌だよ……死んじゃ嫌だよ、士郎……」

 血塗れとなった士郎の身体を固く抱きしめながら、大河が同じ言葉を繰り返す。
 弟から、一人の男へと。
 ようやく自覚した、士郎への想い。
 が、その全てが無駄となった。
 冷たく成り行く士郎の身体を、きつくきつく抱きしめる大河。

「士郎……嫌だよ……死んじゃ嫌だよ、士郎……」

 焦点の定まらない虚ろな目で、彼女はうわ言のように同じ言葉を繰り返す。
 何度も何度も繰り返す。
 何度も何度も。

「……ヤベェな、この嬢ちゃん」
「せめて、一撃で楽にしてあげなさい」

 情けのつもりだろうか。
 傍らに立つバゼットが、そんな事を言った。
 無論、何の慰めにもならない事は彼女も承知している。
 何より、こうなったのは彼女自身が原因である。
 しかし、他に出来る事は無かった。

「それにしても、これは……」

 バゼットの視線が、士郎の持つ双剣に移る。

「宝具に見える気がしますが……いえ、まさか。この時代、私の他に宝具を受け継ぐ者がいる筈は……」

 バゼットが、士郎の手にある得物に手を伸ばす。
 だが、それを手にする事はなかった。
 ランサーがバゼットを抱き抱え、瞬時にその場を離れたからだ。
 いきなりのランサーの行動に思考がついていかなかったバゼットだが、すぐに事態を把握した。
 せざるを得なかった。

「バーサーカー……」

 彼の者が、轟音と共に降り立っていたのである。
 目の前には、士郎と大河を庇うかのように雄々しく聳え立つバーサーカー。
 そしてそのマスター、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。

「……やって、くれたわね」

 顔を伏せたまま、感情を感じさせない声でイリヤが呟いた。
 彼女の胸の内には、後悔や自責といった二文字ではとても言い表せない、言うなれば凝縮された念の塊が激しく渦巻いている。
 元々目撃者がどうなろうとも、彼女にとってはどうでも良い事。
 だから、追うつもりは無かった。
 只その時に、士郎の事を思い出しただけ。
 士郎なら、何があろうと必ず助ける。
 だから、バゼット達を追っただけ。
 自分は正義の味方などではないが、それでも士郎の味方だから。
 だから、一応助けようとした。
 でも、大して助けたい訳ではなかった。
 だから、急ぐ事なく悠々と歩いて追った。
 その結果が、今この目の前の現実だ。
 血塗れの士郎。
 その士郎を抱き締める、虚ろな目をした大河。
 これら全てが、自分の所為だった。

「……誓うわ」

 やがて顔を上げたイリヤは、掠れた声でポツリと言った。
 目の光の失せたその顔は、一切の表情が消えている。

「アンタ達二人は、わたしのバーサーカーが――――必ず殺す」

 イリヤの令呪が、発動した。
 その宣言は、期したその意志の固さに反し、実に静かなものだった。
 しかし、それも当然と言えよう。
 彼女の心は、既にそういった感情が振り切れていたのだから。
 そう、全てが無駄に終わったのだから。
 全ては、士郎の為だった。
 彼女が今ここにこうして存在するのは、何もかもが士郎の為だった。
 その全てが無駄となった。
 自分の愚かさ故に。
 イリヤは悟る。
 最早、自分の存在理由は消え去ったのだと。

「で、どうすんだ、バゼット」

 軽い口調ながらも、隙無く魔槍を構えるランサーが問う。
 彼にとっては、戦うならば望むところである。
 命令一つですぐさま戦えるようにと。
 すぐさま宝具を放てるようにと。
 ランサーは、油断無く己の槍を構えている。
 同じく身構えているバゼットは、戦うか退くかの判断を素早く思考する。
 判断の基準は、至極単純。

 勝てるかどうか、である。

 目の前のマスターは、いま間違いなく令呪を使った。
 令呪によるブーストアップは、決して見逃せない強化である。
 ならば、自分も令呪を使うべきか。
 あるいは、宝具を使わせるべきだろうか。
 ふつふつと涌き出る汗が身体を濡らすが、流れる汗を拭う事なく思考を続ける。
 驚くべき事に、バーサーカーからの重圧はランサーのそれを超えていた。
 間違いなく、強敵である。
 だが、恐れるつもりはなかった。
 自分には、ランサーがいる。
 本人には絶対に言うつもりはないが、自分が幼い頃から憧れていた、ケルト神話の英雄クー・フーリン。
 その英雄が、私のサーヴァントなのだ。
 ならば、恐れる事など何もない。
 なのに、決断が出来ない。
 私は、何を迷っているのだろう。
 何かが気になるのか、このまま戦うのはマズイと、私のカンが囁いていた。
 この耳障りな音が原因だろうか。
 小さいながらも先程から耳に届くサイレンの音が、妙に煩わしい。
 あまつさえ、その音は少しずつ大きくなって……

「しまった、警察ッ!!?」

 西欧のものと比べれば随分と小さな音だが、これがパトカーのサイレンだと私は気付く。
 そしてその音は、確実に近付いて来ている。
 結界も張らず街中で戦闘を行えば、警察に通報されるのは当たり前の事だった。
 ……マズイ。
 聖杯戦争の監督役たる言峰亡き今、警察が関わるのは非常にマズイ。
 しかも警察が来たという事は、目撃者がいるという事だ。
 一体どれだけの目撃者がいる事か……どうすれば良い。
 今や言峰には頼れないというのに……
 いや、あの周辺に住む人間全ての記憶を操作すれば、何とかなるかもしれない。
 私には無理だが、この際この地のセカンドオーナーに事情を説明し協力して貰えれば、まだ何とかなるかもしれない。
 かなりの借りを作る事になるが、協力を取り付けるのは決して不可能ではない筈だ。
 しかし……
 何という失態!
 一つのミスが、ここまで後を引くとは思わなかった。
 やはり、自分は冷静ではないようだ。
 自覚はあったつもりだが、ここまでとは……
 そんなにも私は、言峰の死が答えているのだろうか。
 私を裏切った男だというのに……クッ!

「退きます、ランサー!」

 バゼットは、決断した。

「警察です! 貴女も退きなさい、バーサーカーのマスターッ!」

 そうして撤退を決断したバゼットだが――――



「逃がす訳ないじゃない」



 ――――イリヤは、それを許さなかった。
 許す訳がなかった。

「何を言っているのです! 警察が関わっては、お互いマズイ事に……!」
「だから何よ」
「な、何って……」

 余りの意外な返事に、バゼットは暫し言葉を失う。

「どうでも良いわよ、そんなの」
「馬鹿なッ!? 貴女は何を……ッ!?」
「だからどうでも良いのよ、そんな事」
「な、何を……」
「言ったでしょう。アンタ達は殺すって」
「そうではなく! こ、このままでは、我々の戦闘に警察が介入すると……!」
「なら、全員殺すわ」
「……そんな、馬鹿な」
「バゼット、貴女だけは――――絶対に逃がさない」

 イリヤにとっては、最早全てがどうでも良い事だった。
 警察だろうと何だろうと、邪魔するモノは皆殺すだけ。
 どうせもう、士郎はいないのだ。
 自分がここにいる理由は、もう無い。
 ……いや、一つだけ、しなければならない事があった。
 目の前の二人は、バゼットだけは殺さなければ……
 イリヤは今、バゼットを殺す事だけを考えている。
 考えるように、している。
 そうでもしなければ、士郎の死に、イリヤは耐えられなかった。

 それにしても、さっきからうるさい。
 耳に付く。
 無論、サイレンの音ではない。
 そんなものは、どうでも良い。

「士郎……嫌だよ……死んじゃ嫌だよ、士郎……」

 タイガの声が、実に耳障りだった。

「助けて……誰か士郎を助けて……士郎が死んじゃうよ……」

 気に食わない。
 タイガの声が、イラつく程に気に食わない。
 そんな事は分かっている。
 シロウが殺された事は分かっているのだ。
 うるさい。
 そんな事を何度も言うな。
 いい加減にしないと……

「助けて……誰か士郎を助けて……」

 ……そうだ。
 みんな、殺すのだ。
 なら、タイガだって……
 そう、タイガだって……

「士郎が死んじゃうよ……」

 その時わたしは、ふと違和感を感じた。

 死んじゃうって……何?

 思わず振り返り、シロウを凝視する。
 タイガに抱き締められた、血塗れのシロウ。
 とても生きているようには見えない。
 だがその胸は、ほんの微かだが確かに上下していた。

 そうか、全て遠き理想郷(アヴァロン)!!

 今のシロウの身体にアヴァロンが埋め込まれている事を、わたしは知っている。
 そして本来の歴史ではやはりランサーに刺されたシロウが、セイバーの召喚前だったにも関わらず即死しなかった事を。
 ランサーのあの魔槍に心臓を貫かれたというのに、シロウは即死しなかった。
 つまりは、セイバーと契約を結んでいなくとも、シロウの中のアヴァロンはその能力を発揮しているのだ。
 思えば、かつてのシロウも。
 シロウがキリツグに救われたというあの大火災の時も、セイバーは既に現界していなかった筈。
 その時のシロウも、死に掛けていたという。
 だが、シロウは助かった。
 ならば、シロウはまだ助かる!

 イリヤは、歓喜した。
 歓喜の余り、バゼット達の事を完全に忘れていた。
 それは、絶対の隙だった。
 だが、問題は無かった。
 既にバゼット達は、イリヤの前から姿を消していたのだから。

「タイガ! しっかりしなさい、タイガッ!」

 イリヤが大河の両肩に手を掛け、力強く彼女の身体を揺さぶる。
 しかし、大河からの反応はない。
 虚ろな目のまま、うわ言のように同じ言葉を繰り返すだけだった。

「タイガ! タイガってばッ!」

 焦るイリヤが大河の頬を引っ叩く。
 何度も何度も引っ叩く。
 しかし大河は反応を見せない。

「いい加減にして、タイガッ!!」

 業を煮やしたイリヤが大河を殴った。
 平手ではなく拳で思いきり殴った。
 だが自分の手を傷めただけだった。
 大河の反応は、未だない。

「正気に戻ってよ!」

 大河の胸倉を掴んだイリヤが必死に呼び掛ける。

「シロウを死なせたいのッ!? このままじゃ本当にシロウが死んじゃうじゃないッ!!」

 しかし大河の反応は変わらない。
 が……

「助けるから!」

 この言葉に、ほんの少し反応を見せた。

「シロウは絶対助けるから! だからお願い!! しっかりしてよ、タイガッ!!」

 大河は士郎をきつく抱きしめたまま動かない。

「シロウを助けたいんでしょうッ!!」

 だがその耳には、イリヤの叫びが確かに届いていた。
 彼女は、ゆっくりと顔をあげる。
 そして擦れた声で、呟くよう言った。

「……ホントに?」

 問うた彼女のその目には、間違いようもなく光が戻っていた。

「嘘じゃないわ。シロウは助かる」
「ホント、だよね?」
「本当よ。シロウは助ける」
「士郎は……助かるの?」
「助ける。シロウは必ず助けるわ」

 イリヤは誇らしげに、胸を張って宣言する。

「シロウのお姉ちゃんである、このわたしに任せなさい!」





 シロウを助ける為に、わたし達は急いでリンの家に向かった。
 目的は当然、セイバーとの契約である。
 何しろシロウは、かつての聖杯戦争でバーサーカーにお腹の中身をごっそりと吹き飛ばされた事があるが、それでも翌日には完治したという。
 まあ、命じたのはわたしなんだけど。
 とにかく、セイバーと契約さえしてしまえば、シロウは必ず助かるのだ。
 そんな訳で、わたし達は今遠坂邸に向かって急いでいる。
 決して警察から逃げているのではない。

 シロウを絶対に手離さそうとしないタイガは、バーサーカーがシロウと二人まとめて運んでいる。
 それにしても、タイガがバーサーカーに驚かなかった事がとても意外だ。
 まさかとは思うが、シロウから何か聞いていたのだろうか。
 まあ、良い。
 それどころじゃなかった訳だし。
 どうせ、タイガだし。

 何にせよ、リンの家はもうすぐだ。
 シロウの今の様子なら、今夜一晩くらいは持つだろう。
 後はセイバーと契約をするだけだが、元々セイバーはシロウと契約をしたがっていたし、セイバーに関しては何も問題ない。
 リンだって、シロウのこの有様を見れば、セイバーとの契約の破棄も受け入れるに違いない。
 そしてさすがのサクラも、シロウの生死に関わるのだから、シロウとセイバーの契約は承諾するしかないだろう。

 これで、シロウは聖杯戦争に参戦する事になる。
 これで、わたしとシロウはずっと一緒にいられる。
 そう、わたしは気楽に考えた。

 だが、この考えが只の楽観でしかなかった事を、わたしはすぐに悟る事になる。





「何で家にいないのよッ!!」

 せっかく遠坂の家に着いたというのに、肝心のセイバー達がいなかったのだ。
 冗談じゃないわよ!
 こんな時に限って、何故ッ!

 後にわたしは、この時のセイバーとライダーが凄絶な追いかけっこをしていたと知るが、今のわたしにそれを知る術はない。

 このままでは、シロウが死ぬ。
 死んでしまう。
 それは駄目。
 そんなの絶対認めない。
 ならば、どうする。
 どうすれば良い。

 このままセイバー達が帰って来るのを待つか?
 却下だ。いつ帰って来るかも分からないのに、そんな悠長な事をしている暇はない。
 ならば、セイバー達を探しに行くか?
 それも却下だ。
 どこにいるかも分からないし、こんな時に他のサーヴァントに出会っては堪らない。
 ならば、どうする。
 シロウを助ける為には、どうすれば良い。
 気ばかりが焦る。
 それは良い。
 焦るのは仕方ない。
 でも考えろ。
 焦っていようが何だろうが、シロウを助ける為に、脳細胞の全てを費やし助ける方法を考えろ。

 とにかく、シロウを助ける為には、魔力の供給が必要だ。
 幸いシロウの中の聖剣の鞘(アヴァロン)は、セイバーと契約を結ばずともその力を発揮している。
 だから、シロウは死んでいない。
 でも、助かってもいない。
 すぐにどうなる事はないが、あくまで命を繋ぎ止めているだけに過ぎない。
 持ち主の半身が吹き飛ぼうとも完全に再生するその力が、発揮されていなかった。
 要は、魔力不足である。
 シロウの魔力量では、真名も解放せずにアヴァロンがその力を最大限に発揮する事はない。
 だが逆に言えば、魔力さえ十分ならアヴァロンの力が勝手に働きシロウは助かるのだ。
 その為にもセイバーとの契約が必要なのだが……いえ、待って。
 本当に、セイバーとの契約が必要?
 必要なのは魔力の供給であって……

「そうよッ!!」

 未だに帰って来ないセイバー達に見切りを付け、わたしはシロウの家に向かう事にした。
 そうだ。
 セイバーなど必要ない。
 シロウの魔力だけでは足りないなら、パスを繋いでわたしが魔力を供給すれば良い。
 今の状況で、パスを繋ぐ方法は一つ。
 ……そう、一つ。
 シロウを助けるのは、このわたしだ。
 このわたしが、シロウを愛するわたしこそが、シロウを助けるのだ。





「あら……坊や、いま死んだ?」

 契約を結んだマスターとサーヴァントであろうと、遠距離での意志の疎通は、念話やそれに類する交信手段が必要となる。
 とはいえ令呪の束縛によって結ばれた者同士であれば、どちらか一方が生命に関わる程の窮地にある場合には、気配の乱れですぐにそれと察する事が出来る。
 故に士郎の今の状況は、未だ衛宮邸にいたキャスターにも即座に伝わった。

「そう……殺られたのね、坊や」

 キャスターは、ぼんやりと縁側に座っていた。
 特に何かをしていた訳ではない。
 ただ何となく。
 そんな時間を過ごしていた。
 そんな時間を楽しんでいた。
 だが、それももう終わりだ。

「そっか、死んだか……」

 腰を上げたキャスターが、ふわりと庭に出る。
 最早ここにいる理由はない。
 さっさと次のマスターを見付けるべく、キャスターは衛宮邸を立ち去ろうとしていた。

 ふと彼女は足を止め、夜空を見上げる。
 天には月。
 周りの星々の輝きを打ち消す程の、輝く月。
 暫く月を見ていた後、彼女はにわかに鼻を鳴らす。

「フン……さぞかし無様な死に様だったのでしょうね」

 当然と言えば当然だろう。
 ああまで、己の身の程を知らぬ男だったのだから。
 下らぬ正義感などを持っていた男だった。
 また、馬鹿としかいえないお人好しの男だった。
 更には自分の本当に大切なモノを選ぶ事も出来ない愚かな男であり、なおかつ有り得ない異能の持ち主とはいえ魔術回路すら開いていなかった素人でしかない男でもあり、あまつさえ八年もの歳月を馬鹿げた事に費やした正に愚者の手本というよりは愚者そのものといえる男。
 死んで当然。
 少し見直したかと思えば、すぐにこの様。
 失望もいい所。

 ――――私を勝たせるって言った癖に……

 月を見上げたまま、唇を噛むキャスター。
 自分が悔しいと思っている事に、彼女は気付いていなかった。

「…………フン、まあ良いわ。さて、これからどうしようかしらね」

 せめて令呪を使ってくれればと心の底で思ったが、士郎が死んだ今ではどうしようもない事だ。
 令呪の説明をしていなかった事に、彼女は今も気付いていない。
 ともあれ、次のマスターを見付ける事は必定である。
 まだ死んではいないようだが、どうせ時間の問題。
 所詮は繋ぎのマスター。
 今更知った事ではなく、どうでも良いといえば良いのだが……

「……大河、泣くでしょうね」

 割と気に入っていたお嬢さんだった。
 彼女には一言伝えたい。
 せめて士郎が死んだ事くらいは……

「そうね……そろそろ大河も帰って来るでしょうし、坊やが死んだ事を教えてあげないと……」

 そう考えたキャスターは、もう少しだけ待つ事にした。
 教えた後に彼女が泣こうと喚こうと、自分には関係ない。
 だが、そのくらいはしてあげようと彼女は思った。

 だから、気付くのが遅れた。

「――――サーヴァント!?」

 何時の間にか、サーヴァントが近付いて来ていた。
 しかも早い。
 まず間違いなく、目的はここだ。

「チッ、何故ここが……」

 どうする。
 決まっている。
 すぐに逃げ出すべきだ。
 魔力不足の身では、戦闘などとても出来ない。
 何より、自分は最弱のサーヴァント。
 現状での戦闘など、あり得ない選択だ。
 しかし……
 私は霊体化すると、宙を浮き屋根の上にそっと潜む。
 ……そうだ。
 敵の確認くらいはしておこう。
 後々それはきっと役に立つ。
 あるいは、このままここを素通りする可能性だって……
 まるで誰かに言い訳するように、私はそう考える。
 だが、その期待は空しく裏切られた。
 私の見ている前で、家の塀を飛び越えた巨大なサーヴァントが庭に降り立つ。
 一目で解った。

「嘘ッ!!?」

 思わず声を出してしまった事にも気付かない程、私は驚愕した。
 そして狼狽した。
 冗談ではない。
 勝てる訳がない。
 英霊の枠を超えた、謂わば半神霊といえるアレに、自分程度の反英霊が相手になる筈も、ない。

 生前、その名は世界に鳴り響いていた。
 現代と違い、情報が行き渡るには随分と時間が掛かる時代だったというのに。
 だというのに、そんな事など関係なく。
 山を越え海をも越え、その名は世界に響き渡っていた。
 それは悠久の時を経ても同じ事。
 時を経ても尚、その名が色褪せる事はなかった。
 そう、誰もがその名を知っていた。
 けれど、それも当然。
 それに値する偉業を、彼は成し遂げたのだから。

 ギリシア神話最大の英雄、ヘラクレス。

 そんな見間違いようもない化け物が、今、確かに、眼下にいた。
 ……あり得ない。
 あれ程の英雄が人間如きの召喚を受ける事など、如何なる理由(・・)があろうとあり得ない。
 あり得ない筈なのに……
 いずれにせよ、自分の敵う相手ではない。
 とっとと逃げ出すべく私はそろそろと後ずさるが、

「キャスターさーん!!」

 何故か、唐突に名を呼ばれた。
 切羽詰った、それでいて聞き覚えのあるような、そんな声。
 見ればあのヘラクレスと一緒に、なんと大河がいるではないか。

「な、何で……!?」

 私は慌てふためいた。
 何故、大河が一緒にいるのかという疑問も持たずに。
 ……そうだ。
 何故、大河が一緒にいるのだろう。
 しかも、坊やまで。
 ヘラクレスのマスターらしき少女も見えるが、彼女が大河達を敵視しているようには不思議と見えない。
 またキャスターたる自分の目から見ても、大河が操られているようには見えない。
 まさかとは思うが……
 ここは、よくよく考えるべき状況だ。
 普通に考えれば、坊やを殺したのはヘラクレスである。
 疑問を挟む余地はない。
 だが、しかし。
 もしかすれば、上手くいけば、あのヘラクレスと敵対せずに済むのかも……

 これは、一つの賭けだった。
 己の命をチップにした分の悪い、でも見返りは大きい賭け。
 自分では、間違っても敵わない。
 これは、絶対。
 ならば、逃げるべき。
 でも、ここで逃げてしまっては――――

 そして彼女は決断した。



続く
2007/11/22
By いんちょ


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