月のない夜だった。
降りしきる雨が夜空を覆い、街灯だけが照らす夜道を、ただ当てどなく彷徨った。
考えている事は、一つだけ。
――――死にたくない。
頭の中は、ただそれだけ。
ただそれだけを考えて、倒れ込みそうになるたび歯を食い縛り、足を引きずり歩き続けた。
――――死にたくない。
手には、契約破りの短刀。
身に纏う紫の衣は雨と血に濡れ、冬の雨に凍えた手足は上手く動いてくれなかった。
――――死にたくない。
それでも、私は歩いている。
血の跡を引きずり、見知らぬ道を歩いている。
血塗れの身体と、冷え切った手足。
ほんの少しだけ気を抜けば楽になれるのは、これ以上ないくらいに解っている。
――――死にたくない。
それでも、私は歩き続けた。
こんな所で、死にたくなかった。
まだ、自分は何もしていないのだ。
こんな所で死んでは、何の為に現界したのか。
何の為に、聖杯の寄る辺に従いサーヴァントなどになったのか。
――――死にたくない。
叶えたい願いがある。
だから理に従い、人間如きに従うサーヴァントとなったのだ。
サーヴァント……要するに、奴隷だ。
どんな高位の英霊も、現世にはマスターを依り代としサーヴァントとして現界する。
そしてサーヴァントとして現界する限り、その存在はサーヴァントという枠に括られる。
存在その物がサーヴァントなのだから、当たり前の話である。
つまりはサーヴァントがサーヴァントである限り、決してマスターには逆らえないのだ。
あの忌々しい令呪のある故に。
それが、世の理である。
理を覆す、それこそこの世の全てを背負えるような存在でも無ければ、奴隷が主人に逆らえる訳もない。
正に、道化だ。
それでも、叶えたい願いがあるから、サーヴァントとなった。
道化となる事を、受け入れた。
――――死にたくない。
だから私は、歩き続ける。
気が遠くなるたび唇を噛み、気力を振り絞り歩き続ける。
例え、歩く先に何も無くとも、今の私は歩き続ける事でしか己を保てない。
足が止まればその時が、私の最後となるだろう。
足を止めれば、全てが終わる。
何も成さずに、消えてしまう。
聖杯戦争はまだ始まってもいないというのに、戦う事も出来ず、戦いの場に立つ事すら出来ず、何もかもが惨めなままに終わるのだ。
ただ蹂躙される為だけに呼び出された、哀れなサーヴァントとして。
――――冗談じゃない!
あんな事をされる為に呼び出された訳では、断じてない。ある訳がない。
叶えたい願いがある。
だからこそ、召喚に応じたのだ。
私の人生は、他人に支配され続けるだけの物だった。
操られ、捨てられ、独りとなって、あげくに魔女の役割を求められ……
頼れる者は、誰もいない。
生け贄として勝手に咎を押し付けられて、全ての災いは自分の仕業と一方的に極め付けられた。
独りぼっちの無力な女に、抗う術などある筈も無かった。
だから、受け入れてやっただけ。
どうせ魔女としてしか生きられぬのなら、真実その姿になって思い知らせてやろうと、誓っただけ。
魔女と呼ぶなら呼べば良い。
そして、思い知れ。
魔女とした私に、好き勝手に咎を押し付けたその報いを。
おまえ達がおまえ達の咎を、知らぬというならそれで良い。
それを知らぬ無垢な心のまま、自らの罪で冥府に落ちて、永遠に苦しむが良い。
どうせおまえ達は、決して冥府から出られはしない。
罪の所在が解らないのだから、一生罪人のまま苦しみに喘ぐしかないのだ。
それこそが私の復讐であり、復讐こそが我が願い。
魔女として、生きる。
それが、私の存在意義。
一度も自分の意志で生きられなかった私が、初めて自分で決めた、己の生き方。
……なのに、どうしてこう上手くいかないのだろう。
令呪がある限り、サーヴァントはマスターに逆らえない。
だからこそ、首尾良くマスターを騙し令呪を使い切らせ殺したというのに、その結果がこれでは自嘲するしかない。
いや、元々自分のやる事など全てが上手くいかないのだ。
そもそも、あんなマスターに引き当てられた事自体が、それを大いに証明している。
所詮私の人生は、何の意味も価値も無い、不幸続きの下らない物だったのだから。
自分自身に呆れ果てた時、ついに地面に膝を付いた。
――――これで、終わりかしらね。
思い知らせてやろうと願った復讐だったが、それを果たさずして消えるのも、私にはお似合いかもしれない。
そう思った途端全てが嫌になり、地面にゴロリと仰向けに転がった。
真っ黒な空から、数え切れない雨粒が降り注ぐ。
顔に当たる雨粒が、少し痛い。
何とはなしに、手を空に伸ばす。
月も星もない、真っ暗な雨の空。
ひらひらと手を動かしたが、つかめる物は何も無かった。
私は、何かをつかめたのだろうか……
顔に痛みを感じながら、私は現界してからのこれまでを振り返る。
――――最低だわ。
つかめた物が、下卑たマスターからの低俗な仕打ちと、裏切ったあげくの最高に惨めなこの現状だけとは……
我ながら、感心してしまう。
実に、自分に相応しい結末であった。
このまま次の寄り代が見付からなければ、消え去るのも時間の問題。
まだ数時間は魔力も持つが、それも今夜一晩は持たないだろう。
つまりは、これでおしまい。
サーヴァントとなってまで願った復讐も、果たす事無く消えるだけだ。
――――まあ、出来ない物は仕方ないわよね。
実際、どうしようもない。
だから、簡単に諦めが付いた。
その時、ふと思った。
今更どうしようもないのは確かだが、この程度で諦められる事を私は望んでいたのだろうかと。
ある意味、これまでの事は想像の範囲内。
ならば、この最低な状況を覚悟してまで望んだ事が、あんな下らない者達への復讐なのだろうか。
私の本当の願い……
それこそ、今更だ。
何の望みも無いまま復讐を続けるよりは、復讐こそを自分の望みと考える方が、まだしも良い。
復讐こそが、我が願い。
それで良い。
――――後に私は知る事となる。
そんな事など望んでいなかった事を。
誰も望まぬ下らぬ事を、私が望む筈も無い。
私の本当の望みは――――
「おい、アンタ大丈夫か!」
全ての始まりは、こんな陳腐な出会いからだった。
とっぷりと夜も更け、日付が変わって久しい時間である。
彼女は、衛宮家の縁側で何をするでもなく、ぼんやりと雨の庭を眺めていた。
どのくらいの間、ここでこうしていたのだろう。
随分とぼんやりしていた気もすれば、大して時間は経っていない気もする。
――――まあ、どうでも良いや。
彼女は、そんな事を思った。
雨は、小降りになっていた。
おそらく、朝には上がるのだろう。
藤村大河は、飽きもせず雨の庭を眺めている。
ふと、他人の気配がした。
士郎の気配では、ない。
その気配が士郎でなければ、残ったのは一人しかあり得ない。
だから、大河は無視をした。
無視して、ひたすら庭を眺めているフリをした。
その気配は暫く佇んでいたが、やがて静かに大河の隣に腰を下ろす。
沈黙の時間が、束の間続いた。
雨の音が、ぱらぱらとやけに耳につく。
先に焦れたのは、大河だった。
「何か用?」
「別に」
「だったら、あっち行ってくんない?」
「あら、ご挨拶だこと」
「ふん」
「あらあら」
そう言って彼女は、さも楽しげにくつくつと笑った。
「……ねえ」
「何かしら?」
「何で、士郎だったの?」
「他にいなかったからよ」
「……そうなの?」
「ええ、そうよ」
「そんな、理由なんだ」
「ええ、そんな理由。だって、死にたくなかったもの」
「……」
「それに、どうせなら勝ちたいじゃない」
「……」
「だから、こうしたの」
「……」
「それが、どうかしたのかしら?」
「キャスターさん」
「何?」
庭に視線を向けていた大河が、隣に座るキャスターへゆっくりと向き直る。
そして、その目を真っ直ぐに見据えて言った。
「わたし、あなた嫌いだから」
話は、少し前に遡る。
「藤ねえ、救急車ッ!!」
自宅の玄関口に駆け込みながら、衛宮士郎は大声で大河を呼んだ。珍しくも、切羽詰った声音であった。
ドタドタと足音を響かせながら、大河がすぐに現れる。
夜も遅い時間だったが、外出した士郎の事を、寝ずに待っていたのだろう。
「って、どうしたのよ士郎、この人!?」
士郎は、一人の女性を抱えていた。
別に大河は、士郎が女性を連れ込んだ事に驚いた訳ではない。
いや、それも確かに驚いたのだが、その女性は気を失っている上にずぶ濡れだったのだ。
「道端に倒れてた。大怪我してるかもしれない」
「え? うわ、ホントだ! よく見ると血塗れじゃない、この人! 救急箱、救急箱ォ!!」
更には、ずぶ濡れの為わかり難いが、血に塗れた姿なのだから尚の事である。
「その前に救急車だ、藤ねえ!」
「あ、そっか、分かった! 救急車、救急車ァ――――って、士郎……何、それ?」
ドタバタと慌てていた筈の大河が、急に醒めた声をして指を差す。
指先は、女性の手に向けられている。
その手には、変な形の刃物らしき物が握られていた。
「ねえ、士郎……これって…………」
「あ……うん。短刀、みたいだな…………」
「……もしかして、さ。その血って、さ…………返り血、だったりして?」
「え……?」
思わず二人は黙り込んだ。
「正解よ、お嬢さん」
その時、気を失っていた筈の女性が、唐突に口を開いた。
「うわ!?」
「うひゃあ!?」
「あら、驚かせたかしら?」
士郎の腕の中に横たわる女性は、二人を小馬鹿にするように笑おうとした。
しかし、上手く笑えなかった。
「アンタ、大丈夫なのか?」
「……ええ、お陰様でね」
「そっか、良かった」
士郎は、ホッと胸を撫で下ろす。
その顔には、自然と笑みが浮かんでいた。
その笑みを間近で見た彼女は、怪訝な声で彼に問う。
「……貴方、気にならないの?」
「何がさ?」