大団円を目指して


第15話 「脅迫」



 月のない夜だった。
 降りしきる雨が夜空を覆い、街灯だけが照らす夜道を、ただ当てどなく彷徨った。
 考えている事は、一つだけ。

 ――――死にたくない。

 頭の中は、ただそれだけ。
 ただそれだけを考えて、倒れ込みそうになるたび歯を食い縛り、足を引きずり歩き続けた。

 ――――死にたくない。

 手には、契約破りの短刀。
 身に纏う紫の衣は雨と血に濡れ、冬の雨に凍えた手足は上手く動いてくれなかった。

 ――――死にたくない。

 それでも、私は歩いている。
 血の跡を引きずり、見知らぬ道を歩いている。
 血塗れの身体と、冷え切った手足。
 ほんの少しだけ気を抜けば楽になれるのは、これ以上ないくらいに解っている。

 ――――死にたくない。

 それでも、私は歩き続けた。
 こんな所で、死にたくなかった。
 まだ、自分は何もしていないのだ。
 こんな所で死んでは、何の為に現界したのか。
 何の為に、聖杯の寄る辺に従いサーヴァントなどになったのか。

 ――――死にたくない。

 叶えたい願いがある。
 だから理に従い、人間如きに従うサーヴァントとなったのだ。
 サーヴァント……要するに、奴隷だ。
 どんな高位の英霊も、現世にはマスターを依り代としサーヴァントとして現界する。
 そしてサーヴァントとして現界する限り、その存在はサーヴァントという枠に括られる。
 存在その物がサーヴァントなのだから、当たり前の話である。
 つまりはサーヴァントがサーヴァント(奴隷)である限り、決してマスター(主人)には逆らえないのだ。
 あの忌々しい令呪のある故に。
 それが、世の理である。
 理を覆す、それこそこの世の全てを背負えるような存在でも無ければ、奴隷が主人に逆らえる訳もない。
 正に、道化だ。
 それでも、叶えたい願いがあるから、サーヴァントとなった。
 道化となる事を、受け入れた。

 ――――死にたくない。

 だから私は、歩き続ける。
 気が遠くなるたび唇を噛み、気力を振り絞り歩き続ける。
 例え、歩く先に何も無くとも、今の私は歩き続ける事でしか己を保てない。
 足が止まればその時が、私の最後となるだろう。
 足を止めれば、全てが終わる。
 何も成さずに、消えてしまう。
 聖杯戦争はまだ始まってもいないというのに、戦う事も出来ず、戦いの場に立つ事すら出来ず、何もかもが惨めなままに終わるのだ。
 ただ蹂躙される為だけに呼び出された、哀れなサーヴァントとして。

 ――――冗談じゃない!

 あんな事をされる為に呼び出された訳では、断じてない。ある訳がない。
 叶えたい願いがある。
 だからこそ、召喚に応じたのだ。

 私の人生は、他人に支配され続けるだけの物だった。
 操られ、捨てられ、独りとなって、あげくに魔女の役割を求められ……
 頼れる者は、誰もいない。
 生け贄として勝手に咎を押し付けられて、全ての災いは自分の仕業と一方的に極め付けられた。
 独りぼっちの無力な女に、抗う(すべ)などある筈も無かった。

 だから、受け入れてやっただけ。

 どうせ魔女としてしか生きられぬのなら、真実その姿になって思い知らせてやろうと、誓っただけ。
 魔女と呼ぶなら呼べば良い。
 そして、思い知れ。
 魔女とした私に、好き勝手に咎を押し付けたその報いを。
 おまえ達がおまえ達の咎を、知らぬというならそれで良い。
 それを知らぬ無垢な心のまま、自らの罪で冥府に落ちて、永遠に苦しむが良い。
 どうせおまえ達は、決して冥府から出られはしない。
 罪の所在が解らないのだから、一生罪人のまま苦しみに喘ぐしかないのだ。

 それこそが私の復讐であり、復讐こそが我が願い。

 魔女として、生きる。
 それが、私の存在意義。
 一度も自分の意志で生きられなかった私が、初めて自分で決めた、己の生き方。

 ……なのに、どうしてこう上手くいかないのだろう。

 令呪がある限り、サーヴァントはマスターに逆らえない。
 だからこそ、首尾良くマスターを騙し令呪を使い切らせ殺したというのに、その結果がこれでは自嘲するしかない。
 いや、元々自分のやる事など全てが上手くいかないのだ。
 そもそも、あんなマスターに引き当てられた事自体が、それを大いに証明している。
 所詮私の人生は、何の意味も価値も無い、不幸続きの下らない物だったのだから。
 自分自身に呆れ果てた時、ついに地面に膝を付いた。

 ――――これで、終わりかしらね。

 思い知らせてやろうと願った復讐だったが、それを果たさずして消えるのも、私にはお似合いかもしれない。
 そう思った途端全てが嫌になり、地面にゴロリと仰向けに転がった。
 真っ黒な空から、数え切れない雨粒が降り注ぐ。
 顔に当たる雨粒が、少し痛い。
 何とはなしに、手を空に伸ばす。
 月も星もない、真っ暗な雨の空。
 ひらひらと手を動かしたが、つかめる物は何も無かった。
 私は、何かをつかめたのだろうか……
 顔に痛みを感じながら、私は現界してからのこれまでを振り返る。

 ――――最低だわ。

 つかめた物が、下卑たマスターからの低俗な仕打ちと、裏切ったあげくの最高に惨めなこの現状だけとは……
 我ながら、感心してしまう。
 実に、自分に相応しい結末であった。
 このまま次の寄り代(マスター)が見付からなければ、消え去るのも時間の問題。
 まだ数時間は魔力も持つが、それも今夜一晩は持たないだろう。
 つまりは、これでおしまい。
 サーヴァントとなってまで願った復讐も、果たす事無く消えるだけだ。

 ――――まあ、出来ない物は仕方ないわよね。

 実際、どうしようもない。
 だから、簡単に諦めが付いた。
 その時、ふと思った。
 今更どうしようもないのは確かだが、この程度で諦められる事を私は望んでいたのだろうかと。
 ある意味、これまでの事は想像の範囲内。
 ならば、この最低な状況を覚悟してまで望んだ事が、あんな下らない者達への復讐なのだろうか。

 私の本当の願い……

 それこそ、今更だ。
 何の望みも無いまま復讐を続けるよりは、復讐こそを自分の望みと考える方が、まだしも良い。
 復讐こそが、我が願い。
 それで良い。





 ――――後に私は知る事となる。
 そんな事など望んでいなかった事を。
 誰も望まぬ下らぬ事を、私が望む筈も無い。
 私の本当の望みは――――





「おい、アンタ大丈夫か!」





全ての始まりは、こんな陳腐な出会いからだった。






 とっぷりと夜も更け、日付が変わって久しい時間である。
 彼女は、衛宮家の縁側で何をするでもなく、ぼんやりと雨の庭を眺めていた。
 どのくらいの間、ここでこうしていたのだろう。
 随分とぼんやりしていた気もすれば、大して時間は経っていない気もする。

 ――――まあ、どうでも良いや。

 彼女は、そんな事を思った。
 雨は、小降りになっていた。
 おそらく、朝には上がるのだろう。
 藤村大河は、飽きもせず雨の庭を眺めている。

 ふと、他人の気配がした。
 士郎の気配では、ない。
 その気配が士郎でなければ、残ったのは一人(・・)しかあり得ない。
 だから、大河は無視をした。
 無視して、ひたすら庭を眺めているフリをした。
 その気配は暫く佇んでいたが、やがて静かに大河の隣に腰を下ろす。
 沈黙の時間が、束の間続いた。
 雨の音が、ぱらぱらとやけに耳につく。
 先に焦れたのは、大河だった。

「何か用?」
「別に」
「だったら、あっち行ってくんない?」
「あら、ご挨拶だこと」
「ふん」
「あらあら」

 そう言って彼女は、さも楽しげにくつくつと笑った。

「……ねえ」
「何かしら?」
「何で、士郎だったの?」
「他にいなかったからよ」
「……そうなの?」
「ええ、そうよ」
「そんな、理由なんだ」
「ええ、そんな理由。だって、死にたくなかったもの」
「……」
「それに、どうせなら勝ちたいじゃない」
「……」
「だから、こうしたの」
「……」
「それが、どうかしたのかしら?」
「キャスターさん」
「何?」

 庭に視線を向けていた大河が、隣に座るキャスターへゆっくりと向き直る。
 そして、その目を真っ直ぐに見据えて言った。

「わたし、あなた嫌いだから」

 話は、少し前に遡る。





「藤ねえ、救急車ッ!!」

 自宅の玄関口に駆け込みながら、衛宮士郎は大声で大河を呼んだ。珍しくも、切羽詰った声音であった。
 ドタドタと足音を響かせながら、大河がすぐに現れる。
 夜も遅い時間だったが、外出した士郎の事を、寝ずに待っていたのだろう。

「って、どうしたのよ士郎、この人!?」

 士郎は、一人の女性を抱えていた。
 別に大河は、士郎が女性を連れ込んだ事に驚いた訳ではない。
 いや、それも確かに驚いたのだが、その女性は気を失っている上にずぶ濡れだったのだ。

「道端に倒れてた。大怪我してるかもしれない」
「え? うわ、ホントだ! よく見ると血塗れじゃない、この人! 救急箱、救急箱ォ!!」

 更には、ずぶ濡れの為わかり難いが、血に塗れた姿なのだから尚の事である。

「その前に救急車だ、藤ねえ!」
「あ、そっか、分かった! 救急車、救急車ァ――――って、士郎……何、それ?」

 ドタバタと慌てていた筈の大河が、急に醒めた声をして指を差す。
 指先は、女性の手に向けられている。
 その手には、変な形の刃物らしき物が握られていた。

「ねえ、士郎……これって…………」
「あ……うん。短刀、みたいだな…………」
「……もしかして、さ。その血って、さ…………返り血、だったりして?」
「え……?」

 思わず二人は黙り込んだ。

「正解よ、お嬢さん」

 その時、気を失っていた筈の女性が、唐突に口を開いた。

「うわ!?」
「うひゃあ!?」
「あら、驚かせたかしら?」

 士郎の腕の中に横たわる女性は、二人を小馬鹿にするように笑おうとした。
 しかし、上手く笑えなかった。

「アンタ、大丈夫なのか?」
「……ええ、お陰様でね」
「そっか、良かった」

 士郎は、ホッと胸を撫で下ろす。
 その顔には、自然と笑みが浮かんでいた。
 その笑みを間近で見た彼女は、怪訝な声で彼に問う。

「……貴方、気にならないの?」
「何がさ?」

「決まってんでしょ、その返り血よおッ!!」

 大河が、がおーんとツッコんだ。
 背後に虎が見えた。気がしないでもない。

「なにスルーしてんのよ、士郎ったら! 返り血なんだよ、血塗れなんだよ! どう考えたって、普通じゃないでしょ――――ッ!!」
「いや、そうだけど……」
「そうなの!」
「まあ……この場合は、お嬢さんの反応が正しいわね」
「貴女も、普通に答えないの!!」
「落ち着けよ、藤ねえ。とにかくアンタ、怪我はしていないんだな?」
「死に掛けてはいるけどね」
「え!?」
「大丈夫よ。まだ暫くは持つから」

 ――――さて、どうしようかしらね。

 これまでの二人の会話を全て聞いていたキャスターは、素早く考えを巡らせる。
 この男は、魔術師だ。
 その事は、助けられてからここに運ばれて来る間に、既に把握している。
 何しろこの男、魔術を使ってもいないのに、魔術回路を閉じていないのだ。
 聖杯戦争の始まるこの時期に、不必要に魔力を纏うのは忌むべき事である。
 魔術師である事を、隠す気はないのだろうか。
 正直、馬鹿としか思えない。
 いや、きっと馬鹿なのだろう、この坊やは。
 私なんかを、助けたのだから。
 では、そんな坊やに対し、私は話をどう持っていくべきか……

「どころで、坊や」
「む……坊やは止めてくれ」
「あら、そう? そうね、考えても良いわよ」
「何だよ、それ? 止める気はないって事か?」
「そうじゃないわよ」

 そう言って彼女は、くすくすと笑った。
 妙に、愉しげな笑いだった。
 そしてキャスターのサーヴァントであるメディアは、こう続けたのである。

「私を、抱いてくれない?」





 所変わって、場所は衛宮家の居間である。

「つまり、これからこの町で、魔術師同士の戦争が始まるんだな?」
「……ええ、そうよ。聖杯に選ばれたマスターが聖杯を得る為、召喚したサーヴァントを以って戦う、この地独自の魔術師同士の戦争。それが、これから始まるの」
「で、アンタはキャスターなんだな?」
「ええ、私はキャスターのサーヴァント。それにしても……まさか、この時期この町にいる魔術師が、聖杯戦争の事を何も知らないだなんて、驚きだわ」

 士郎と大河は、聖杯戦争に関する説明をキャスターから受けていた。
 大河は勿論だが、士郎も魔術師とはいえ、聖杯戦争の事は何も知らないのである。
 その為、キャスターが言った「抱いて欲しい」の言葉の意味は、思いっきり勘違いされた。
 マスターになって欲しいという意味で言ったに過ぎないのだが、士郎には全く意味が通じず慌てふためかれただけで、更には大河が「何処のギャルゲーだ、コンチクショォーッ!」などと言って暴れだした為、一から説明する羽目に陥ったのだ。
 その暴れっぷりは、正に暴風雨といった言葉が相応しい大層な物であり、キャスターをして「た、只者じゃないわね、このお嬢さん」と、一目置かせたかもしれない程である。

 ――――失敗したわ……

 ちょっぴり脱力気味のキャスターは、そんな事を思った。
 まさか、少しからかっただけで、ここまで大騒ぎになるとは思わなかったのだ。
 普通、思わないが。

 ――――参ったわね。そんなに時間も無いっていうのに。

 キャスターとしては、最初の思惑はどうあれ、士郎が無知と知ったからには全てを説明せず、なし崩しに抱かれるつもりだった。
 聖杯戦争とは、殺し合い。
 全てを説明してしまえば、臆病風に吹かれるかもしれないからだ。
 ともあれ、キャスターは士郎と契約を結ぶべく、頭を働かせる。

 まずは、聖杯が餌となろう。
 聖杯は、魔術師ならば誰もが欲しがる物であり、これは絶対だ。
 しかし、それは殺し合いに参加する事を意味している。
 聖杯戦争についてはなるべく言葉を濁して説明したものの、臆病者なら尻込みするだろう。

 ならば、この身体を餌にしよう。
 どうせ、汚れた身体である。
 令呪の説明は敢えて省いたが、サーヴァントがマスターに逆らえない事は理解した筈。
 つまりは、この身体を自由に出来る訳だ。
 無論、自分の身体と引き換えとはいえ、殺し合いに参加するとは限らないし、そこまで自惚れてもいない。
 しかし、一度で良い。
 契約を結び、一度でも魔力を補充出来さえすれば、後は……

「ちょっと待って」

 キャスターが自分の考えに没頭していると、大河がおもむろに口を開いた。
 その表情は、何時になく厳しい。

「ねえ、士郎?」
「何だよ、藤ねえ?」
「士郎が魔術師って――――本当?」
「……ああ。俺は、魔術師だ」

 士郎は、大河の真っ直ぐな視線から目を逸らさずに、己が魔術師である事を肯定した。
 士郎の目を見詰める大河。
 大河の目を見詰め返す士郎。
 そして大河は、この突拍子もない事実を素直に受け入れた。

「本当、なんだね……もしかして、切嗣さんも?」
「そうだ。親父も魔術師だ」
「そっかあ……ねえ、キャスターさん?」
「何かしら、お嬢さん?」
「結局その服の血は、どうしたの?」
「……」
「その血、凄いよね。自分の血じゃなきゃ、誰かの血って事だよね?」
「……」
「もう一度聞くよ、キャスターさん。その血は、誰の血?」
「……最初に言ったとおりよ。これは、私が殺した、マスターだった男の返り血」

 そう言いながら、キャスターは己の顔を隠していたフードを取り去った。
 隠されていた顔が露わになり、空色の髪がふわりと揺れる。
 その印象は、意外にも清楚。
 口調からは想像つかない清楚な顔立ちに、尖った特徴的な耳。
 清らかとさえ言えるその美しさは、人を殺したという衝撃的な事実も、二人に一時忘れさせる程の物だった。

「サーヴァントがマスターに逆らえない事は、言ったわよね」
「……」
「そして私を召喚したマスターは、実に下種な男だったわ」
「……」
「下卑たマスターに何をされたか。事細かに説明した方が、良い?」
「いや、しなくて良い」

 士郎が、キャスターの言葉を止めた。

「藤ねえも、良いよな?」
「……うん」
「あら、良いの?」
「わたしも、女だから」
「でも、私は人を殺したのよ? それは、貴女にとっても坊やにとっても、忌避すべき事ではなくて?」
「そうだけど……わたしには、想像しか出来ないから」
「……」
「それに、わたしだって……そうしちゃうかもしれない、譲れないもの(・・・・・・)はあるもの。だから……」
「そう」

 とにかく、とキャスターは言葉を続ける。

「私は、このまま死にたくないのよ。だから坊やには、私を抱いて欲しいの」
「俺をマスターにする為か?」
「貴方も魔術師なら、聖杯の価値は言うまでもないでしょう? その代わりと言っては何だけど、私を好きにして良いから」
「……」
「大丈夫よ。納得ずくだし、助けて貰う立場だもの。貴方に変な事はしないわ」
「……」
「その程度の事、今更だし……他に手もないしね。信用出来ないのは無理ないけど、それでも私を信じて欲しいの」
「……」
「どうかしら?」

 キャスターは、士郎に答えを迫った。
 その様子からは、断られる事はあるまいという自信の程が伺える。
 士郎は少しだけ考えた後、ハッキリと答えた。

 その答えは――――否であった。

「な、何でッ!!?」

 キャスターは、本気で狼狽した。
 まさか、断られるとは思ってもみなかったのだ。
 しかし士郎は、再度拒否の言葉を告げる。

「好きでもない男と、そういう事をするのは、駄目だ」

 その言葉を聞き、キャスターは本気で呆気に取られた。
 死に掛けている女に向かって、何を言っているのだろう、この男は。
 まさか、自分が好きで抱かれるとでも思っているのか。
 馬鹿な男とは思っていたが、本気で馬鹿だ、この男。
 キャスターは、大いに憤慨した。
 当然納得出来る筈もないが、彼女がどんなに理を説こうと、士郎は「他にも助ける方法はある筈だ」と言って、取り合わない。

 ――――冗談じゃないわよ!!

 ある筈だ、とは何なのだ!
 他に手があるなら言ってみろ!
 他には無いと言ったではないか!
 既に魔力は尽き掛け、現界も危ないというのに、なに綺麗事を――――いや、落ち着け、私。
 助ける気(・・・・)はあるのだ、この坊やには。
 ならば、ここは私が冷静にならないと。
 冷静になれなければ、結果は私が消える事になる。とにかく落ち着かないと……

 それにしてもこの坊や、私がこんな事を言った事情を、何も理解していない。
 そして私の説いた利は、理解しようともしていない。
 考えが浅い。実に浅はか。青臭い事を言っているだけだ。
 正に、坊やである。
 嫌なら嫌で代わる方法を示さなければ、そんなのは只の我が侭であり、子供の駄々と何ら変わりない。
 第一印象の通りであった。

 坊やの第一印象。
 言うなれば、それは『馬鹿な男』である。
 死に掛けている私を助けたくらいだ。お人好しな事は分かっていた。
 魔術師がお人好しとは、笑い話にもならないが。
 そもそもお人好しなど、万事が他人に利用されるだけの存在でしかなく、おそらくこの坊やは、これまでも他人に良いように使われてきた筈である。
 つまり、お人好しとは馬鹿その物であり、全く坊やに相応しい。
 そのうえ浅はかと来たのだから、傀儡にするには、これ以上ないくらいに容易い存在と言えよう。

 それだけに、断られるとは思っていなかった。
 好きでもない男、と坊やは言ったが、そんな事は言われるまでもない。
 それでも私は、死にたくない。
 死にたくないのだ。
 それの何が悪い。
 綺麗事を勝手に押し付けるのも、いい加減に……いや、私の考えが足りなかっただけか。
 殺し合いの意味を深く考えていないだけなのだろうが、今のところ私を助ける気はあるのだ。

 ならば、言い方を変えれば良い。
 あんな言い方をすれば、坊やが断る事は予想して然るべきだった。
 どうやら、馬鹿で浅はかでお人好しな坊やは、それでも下種ではなかったようだ。
 この、姉代わりとやらの女の前だからかも知れないが。
 何にせよ、身体を餌にする必要がないのはありがたい話だが、それでもマスターが必要である事に変わりはない。
 例え、繋ぎのマスターに過ぎずとも。

「お願い、私を助けて」

 だから、そう言い直した。
 見てらっしゃい、坊や。
 必ず、頷かせてあげるから。
 坊やみたいなお人好し、言い方一つで何とでもなるのよ。

「叶えたい願いがあるの」

 なるべく真摯に、私は語る。
 復讐が願いとは、とても言えないけどね。

「貴方にとっては、不本意かもしれないけど」

 私にとっても、不本意なのよ。

「それでも、私を助けて欲しいの。お願いします」

 坊や如きの魔術師に頭を下げるのは、本当に不本意なのよ。
 ある意味、抱かれるよりも屈辱だわ。
 まあ、背に腹は替えられないんだけどね。

「それに、分かっているとは思うけど、戦争が始まれば、間違いなく町の人間達が巻き込まれるわ」

 これは、本当。

「魔術は秘匿が原則とはいえ、結局のところ魔術師は、一般人の事なんて気にしないのよ。いざとなれば消せば良い、といった程度にしか考えないでしょうね」

 だって、私もそうだから。

「私は、それを止めたい」

 これは、嘘。
 そんな気、更々ないわ。
 何となく坊やは安っぽそうな正義感を持っていそうだから、そちらの方から攻めてみただけ。
 でも全部が全部、嘘じゃないのよ。
 犠牲は少ない方が良いに決まっているもの。

 とは言うものの、この身はキャスターのサーヴァントであり、キャスターのクラスはサーヴァント中最弱だ。
 止める気はないが、止める事も出来ないだろう。
 最弱の所以は、サーヴァントがそれぞれに持つクラス別の能力として、大方のクラスに対魔力のスキルが備えられているからである。
 中でもセイバーは、選ばれる英霊にもよるが、とてつもない対魔力を誇ると言う。
 魔術を以って戦う自分には、最悪と言えよう。
 勝ち抜く事が不可能とは言わないが、限りなく難しいのは間違いない。
 つまりは策を弄して戦うしかない訳だが、それもこれも魔力が十分でなければ話にならない。

「だから、貴方に協力して欲しいの」

 だから私は、坊やを言い包める。
 自分の願いを叶える為に。

「私利私欲でしか動かないのが魔術師だから。実際、十年前の聖杯戦争では、かなりの人間達が巻き込まれたらしいわ」
「十年、前……?」

 ――――喰い付いた!

「ええ、私も前のマスターに聞いただけなんだけど……」

 私は、一つの町がまるまる焼け野原になったという聞きかじった事実を、坊やに説明する。
 すると、見る見るうちに坊やの目の色が変わった。
 ……成る程。本当に安っぽい正義感を持っていたのね。
 魔術師が正義感とは片腹痛いが、ならばと、私は心にもない言葉をつらつらと重ね、そして最後に――――

「……私と一緒に頑張りましょう。罪も無い人達を守る為に」

 ――――こんな感じで、締め括った。
 罪の無い人間なんて存在しないけどね。クスッ。

「……分かった。
 俺で良ければ、キャスターのマスターになる」

 結局、坊やは頷いた。
 頷かせてやった。
 ざまあみろ。

「ありがとう……人が好いのね、貴方」
「そんなんじゃない」
「照れる事ないじゃない。そういう人、好きよ」

 無論、真っ赤な嘘である。
 お人好しなど、真っ平ごめんだ。
 愚者、綺麗事、そして偽善。それらは、私の最も嫌う物だから。
 故に、私はこの男が嫌いだ。
 ならば、この男をどう利用しようと、私の良心は痛まない。
 もっとも、そんな物とっくに無いけどね。

 こうして、自分の都合を一方的に押し付ける事に成功したキャスターが、内心ほくそ笑んでいると、





「駄目よ、士郎」





 と、大河が言った。

「何が駄目なんだよ、藤ねえ?」
「キャスターさんを助けちゃ駄目って、わたしは言ったの」
「……え?」

 士郎は、大河の言った言葉の意味を理解出来なかった。

「士郎」

 そんな士郎に構わず、言葉を続ける大河。そして、

「この人を、見捨てなさい」

 誤解の仕様もない事を、ハッキリと言った。

「な、何言っているんだよ、藤ねえ! キャスターを見捨てろっていうのか!?」
「そうだよ」
「分かっているのか、藤ねえ! 見捨てるって事は、キャスターが死ぬって事なんだぞッ!?」
「解ってる」

 大河は感情を感じさせない平坦な声で、これ以上ないくらい明確に告げる。

「わたしはキャスターさんに、死んでくれって言ってるの」

 可愛い弟が、戦争に巻き込まれようとしていた。
 人を助ける為とはいえ、殺し合いに参加しようとしていた。
 最初は「戦争なんて大袈裟だなあ」といった具合に軽く考えていたものの、それは十年前のあの大火災の原因だったと彼女は言った。

 冗談じゃない。

 ならば、それを止めるのは当然の事。
 そして士郎を止められるのは、今ここにいる自分だけ。
 例え、この人に恨まれようと。
 例え、士郎に嫌われようと。
 士郎が死ぬよりは、何百倍もマシ。

「何言ってんだよ、藤ねえ! 見殺しになんか出来ないだろッ!」
「だから、わたしはキャスターさんを見殺しにしなさいって言っているの」

 興奮する士郎に対し、大河は至極冷静であった。
 大河とて、酷い事を言っている自覚はある。
 大河とて、好きでキャスターを見捨てる訳ではない。
 しかしキャスターを助ければ、士郎があの大火災の原因になったという聖杯戦争とやらに参加する事になるのだ。
 ならばキャスターを見捨てるのは、大河にとっては当然の選択だ。
 大河にも良心はある。人一倍ある。出来る事なら助けたいし、無理をしてでも助けたい。
 しかし、士郎とキャスターの二択ならば、選ぶ一方は言うまでもない。選ぶ必要すらない。
 大河にとっては、それだけの話だった。

「士郎こそ、分かってるの? キャスターさんのマスターになるって事は、殺し合いをする事になるんだよ?」
「分かってる」
「本当に? 戦争だよ? 冗談じゃないんだよ? あの火事で何百人も死んじゃったんだよ? それは士郎が一番良く分かってるじゃない」
「だから、分かってるさ!」
「ホントに? 士郎はホントに分かっているの? それだけじゃないんだよ? その人とエッチして助けたら、それでおしまいじゃないんだよ? ちゃんと助けた後の事(・・・)も、考えてる?」
「分かってるさ。マスターとして、聖杯戦争に参加するって事だろ?」
「分かってない。やっぱり士郎は、全然分かってないよ……」

 大河は、悲しげに首を振る。

「士郎はさ、聖杯って物で、叶えたい願いでもあるの?」
「別に無いけど……」
「無いよね。そうだよね。士郎ならそういうと思ったよ。だったら士郎が戦争に参加する必要なんて、何処にも無いよね」
「違う! 願いを叶える為じゃない! 俺はキャスターを、皆を助けようと……!」
「無理だよ」

 大河は、キッパリと言った。

「士郎、弱っちいもん」
「グッ……」

 士郎が悔しげに黙り込む。
 齢二十五にして剣道五段の大河に言われては、黙り込むしかなかった。

「士郎は弱いんだよ。お姉ちゃんより全然弱いの。そんな士郎が何言っているの?」
「……」
「それとも士郎、魔術師としては凄いの? 違うよね? 半人前って言ってたもんね?」
「そうだけど……」
「死ぬよ」
「……」
「士郎、死んじゃうよ。絶対に死ぬ。
 お姉ちゃん、そんなの嫌だ。士郎に死んでなんか欲しくない。
 だから、止めるよ。何があっても、絶対止める。
 どんな事をしてでも(・・・・・・・・・)、絶対に止めるから」

 繰り返すが、大河は極めて冷静である。
 声を荒げる事なく淡々と、士郎の言葉を否定する。
 既に、腹は括っていた。
 キャスターからしてみれば、自分は紛れも無く邪魔者だ。
 何しろ、死ねと言っているのだから。
 そして相手は、人間を超えた存在。
 ■される事は、十分あり得る。
 しかしそれでも、大河に引く気は一歩たりともなかった。

 二人が言い争っている間、キャスターは黙ったまま、傍から二人を見ているだけだった。
 このまま二人の言い争いが続けば時間切れとなり、自然にキャスターは消える事となる。
 にも関わらず、キャスターが口出しをする事は、一切無かった。

 士郎と大河の言い争いは続いている。
 大河が如何に理を尽くし情を尽くして言い含めようと、士郎は頑として譲らない。
 言い淀んでは意固地にはね付け、最早話し合い云々ではなくなっている。
 二人の意見は、何処まで行っても平行線だった。

 とその時大河が、ハァ、と一つ溜め息を吐き言った。

「まあ……士郎が言葉(・・)で納得するなんて、思ってなかったけどね」

 まるで、説得を諦めたような言い草だった。
 肩を落とした彼女はそのまま居間を後にし、何故か台所に入った。
 分かってくれたのだろうかと思いつつも、その事を不思議に思う士郎。
 大河は、すぐに台所から出て来た。

 その手には、包丁が握られていた。

「馬鹿ッ! 止めろッ!!」

 無意識の内にキャスターを庇いながら、大河に向かって士郎が叫ぶ。
 いくら自分の為とは言え、そんな事を目の前でさせる訳にはいかなかった。
 例え自分より強い相手とて、それを許すつもりは全く無い。
 何より、そんな事を姉にさせる訳には、絶対にいかなかった。
 キャスターの前で大きく両手を広げ、断固たる意思で彼女を庇う士郎。
 そんな士郎を見て大河は、普段とは全く違う儚げな笑顔を見せ、言った。

「……やっぱり士郎は凄いね。そうやって自然に人を庇えるのって、実は凄い事なんだよ。でも勘違いしないで」

 瞬間、士郎の顔から血の気が引いた。

「これは、こうするの」

 大河は、包丁の刃先をぴたりと己の首筋に当てていた。
 そして、彼女は言ったのだ。





「士郎が止めないなら、お姉ちゃん、死ぬよ」




続く
2006/10/31
By いんちょ


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