大団円を目指して


第16話 「二者択一」



 人は、あっけなく死ぬ。
 藤村組の一人娘であるわたしは、その事をそれなりに知っていた。
 知りたくもなかった事実だが、極道の娘であるという現実は、近しい人との死を無関係ではいさせてくれなかった。
 詳しい事は、語るまい。
 また、その必要も無いだろう。
 今すべき事は、士郎を止める事。只それだけだ。

 士郎は今、自分から死の淵へ飛び込もうとしている。
 自分の命を軽く考えているのか、平気で命を捨てようとしている。
 それを止められるのは、わたしだけ。
 そして士郎は、口先だけでは止まらない。
 自分では気付いていないだろうが、士郎にとって他人を助ける事は、強迫観念に近い物があるから。
 例え幾千の言葉を費やそうと、士郎は頑なに拒むだけだろう。

 ならばわたしは、身体を張ろう。
 身体を張って、士郎を止めよう。
 それが出来るのは、わたしだけ。
 士郎の姉である、このわたしだけなのだ。

「士郎が止めないなら、お姉ちゃん、死ぬよ」

 だから大河は、命を掛けた。
 足の震えを、必死に押し殺して。
 反射的に、士郎が大河に向かって動こうとするが、

「動かないで」

 大河の一言で、動けなくなる。
 そして大河は、あっけなく包丁を引いた。
 首から、たらりと血が流れた。

「藤ねえッ! 何やって……ッ!?」
「聞いて」

 大河の静かな一喝が、士郎の動きを完全に止める。

「今のは動脈を外したから大丈夫。そんな事より話を聞きなさい士郎」
「……分かった。分かったから、藤ねえも包丁を捨ててくれ。声、震えてるじゃないか」
「うん、怖いもん」
「……」

 最早、士郎には話を聞く事しか出来なかった。

「士郎がキャスターさんを助けるって事はね。これまでの生活を……日常って言った方が良いかな。とにかくそれを全部捨てる事になるの。分かる?」
「……分かる。マスターになるって事は…………」
「そう。わたしや桜ちゃんを捨てる事になるの」
「な、何でそうなるんだよ! 俺は只、守りたいだけ……ッ!」
「士郎が死ぬから」
「……」
「それだけじゃないけど……分かんないよね。今は分かんなくて良いよ。でもそうなるの。だから――――」

 大河は包丁の刃を、未だ血の流れる首の肉に食い込ませながら、言った。

「――――選びなさい士郎。キャスターさんか、わたしか」

 今や、士郎の顔からは完全に血の気が引いていた。
 しかし、ぼんやりとしている暇はない。
 何しろ自分の選択次第で、大切な姉が死んでしまうかもしれないのだ。
 士郎は、必死に考えている。
 大河は選べと言ったが、士郎には正直分からなかった。
 何故キャスターを助ける事が、大河達を捨てる事に繋がるのか。
 それが、どうしても分からなかった。

 それでも分かる事が、一つだけあった。
 それは、大河のこれが、決して虚勢ではないという事だ。
 姉は、本気で命を掛けている。
 渦巻く疑問を抱えたまま、士郎は二択の答えを、これ以上ない位に考えている。
 そんな悩む士郎に視線を向けたまま、大河がキャスターに話し掛けた。

「ごめんね、キャスターさん」
「何よ、いきなり」
「キャスターさんを見捨てて、ごめんね」
「……」
「でも、わたしは士郎に死んで欲しくないの。だから、貴女を見捨てるよ」
「そう」
「わたしの事、恨んで良いから」
「……当然でしょ?」
「そうだね。偉そうな事言って、ごめん」
「……」
「でも、キャスターさん?」
「何よ?」
「何で、わたしを殺さないの?」

 このままキャスターに殺されるかもしれないと、頭の何処かで大河は考えていた。
 何しろ相手は、人間とは比べ物にならない存在らしいのだ。
 そして自分は、どう考えても邪魔な存在。
 今この瞬間にも殺される事は、十分あり得る。
 大河は、そう考えていた。
 しかし、最悪それでも良かった。
 無論その時は可能な限り抵抗するし、正直強そうには見えない。
 死に掛けていると言っていたから、おそらくはその所為なのだろう。

 ――――大河はまだ、サーヴァントという存在を甘く見ていた。

 それでも自分が殺された時は、士郎がマスターとやらになる事はない。
 大事な事は、士郎を死なせない事。
 そして、誰も殺させない(・・・・・)事。
 他の事は、生き延びた時に考えれば良いのだ。

「その前に、一つ聞いても良いかしら?」
「うん」
「貴女の言ってた譲れないものって……この坊やだったのね」
「勿論」
「そう……まあ、良いんじゃない」

 誇らしげに答える大河に対し、キャスターの言葉は実に意外な物だった。

「面白い見世物だったし、見物料くらい払うわよ」

 別に死にたい訳じゃないけどねと、軽い様子で彼女は続ける。

「……意外だね。わたし、キャスターさんに殺されちゃうかと思ってたんだけど」
「残念ながら、そんな魔力の余裕は無いの」
「そうなの?」
「ええ、そうよ。出来ない事もないけど、そんな事をしたら坊やが怒るじゃない」

 坊やを怒らせちゃ元も子も無いしねと、キャスターは肩を竦めた。
 そして士郎に視線を移した彼女は、妙に楽しげに言ったのである。

「で、坊やはどちらを選ぶのかしら?」

 彼女は、不思議と気分が良かった。

 当然の如く、士郎は即答出来ない。
 姉を取るか、キャスターを取るか。
 士郎が今まで直面する事の無かった、しなくて済んでいた、この二択。
 これは、正義の味方の道を歩むか否かの、究極の二択でもあった。
 自分の理想を捨てずに済ませる為には、選択せずに済む新たな答えを自力で見付けるしかない。
 しかし、そんな都合の良い答えはなかった。
 少なくとも、士郎には見出せなかった。
 士郎は、未だ答えを選べない。

「……何、迷っているんだか」

 答えに詰まる士郎に対し、吐き捨てるようにキャスターが言った。

「本当にどうしようもないわね、貴方。迷う必要なんて、何処にも無いじゃない」

 せっかくの良い気分が、台無しだった。

「良いわ。私が答えを出して上げる」
「ま、待て! 待ってくれ、キャスター!!」
「猿芝居は、もう結構」

 そして、大河はくたりと崩れ落ちた。

「藤ねえッ!!!」





 大河は、気を失っているだけだった。





「藤ねえ……良かった…………」

 大河を抱きしめた士郎が、心の底から安堵する。
 知らずに、涙が滲んでいた。
 暫くの間そうしていた士郎だったが、やがてゆっくりと彼女の身体を畳の上に横たえ、

「えっと……キャスターが、助けてくれたんだよな?」

 照れくさそうに、キャスターを振り返った。
 彼の視線に映った物は、両手両膝を地に付け、荒い息を吐いている彼女の姿である。

「キャスターッ!!?」
「参ったわね……まさか、この程度の暗示を使っただけで…………」

 既に、キャスターは限界だった。

「大丈夫か、キャスター!」

 慌ててキャスターに駆け寄る士郎。しかし、

「坊やが心配しなきゃいけないのは、私じゃないでしょう」

 伸ばしたその手は、払いのけられる。

「そのお嬢さん、本気だったわよ。少なくとも、私には本気に見えたわ」
「キャスター……」
「……少し、うらやましいわね。私には、そんな人いなかったから」

 大事になさいと、そんな言葉を何故か続けた。
 らしくないとは思う。
 自分でも、驚きだ。
 それでも妙に気分が良かった。
 こんなにも気分が良いのは……先程もそうだったが、思い出せない位に久しぶりの事だ。
 これだけでも召喚に応じた甲斐はあった……気がしないでもない。なんてね。
 まあ、良い。
 死にたくはないが、死んでも良いのだ。
 我が事ながら矛盾しているが、紛れも無い本音なのだから、これはもう致し方ないだろう。

「どうやら、私はここまでのようだけど……」
「そんな事、ない」
「……え?」
「俺が、キャスターを助ける」
「……本気?」
「ああ」

 坊やは、力強く頷いた。
 そんな坊やに私は、

 ――――喉元過ぎれば、ね。

 心の中で溜め息を吐いていた。
 結局坊やは、どちらも選ぶ事は無かった。
 単に彼女の命の心配が無くなったから、死に掛けている哀れな私を助けようとしているに過ぎない。
 深く考えもせずに。
 私を選んだ訳ではなく、彼女を捨てた訳でもないのだ。
 助けてくれるのはありがたいが、感謝する気にはなれなかった。
 自分の命に価値など無いし、駄目なら駄目で諦めのついた事だから。
 これが、彼女を捨ててまで自分を選んでくれたのなら、また話は別かもしれないが。
 どうせ坊やは、これが彼女に対する裏切りである事に、気付いてもいないのだろう。
 全く、頭に来る。
 何故、あそこまでした彼女の気持ちを裏切るの……って、何イラついているんだか。

 裏切りの魔女たる、この私が。

 それこそ、私の知った事ではないだろうに。
 本当に、らしくない。
 魔女なら魔女らしく、私は自分の事だけ考えていれば良いのだ。

「じゃあ、私を抱いて……あら?」

 その時キャスターが、士郎の左手の甲に出来ている痣に気が付いた。

「坊や、その手の甲の痣……」
「え……? あれ、ホントだ。手の甲に痣が出来てる。おかしいな、ぶつけた覚えは無いんだけど」

 士郎の左手の甲には、大きな痣が出来ていた。
 痣は切り傷のようで、派手なミミズ腫れを残している。

「……それは聖痕(せいこん)よ。それこそが聖杯に選ばれた証、なんだけど……」

 ――――さて、どうしようかしらね。

 キャスターは、少しだけ悩んだ。
 令呪の兆しがあるなら、普通に契約を交わせばそれで問題ない。
 こんな半端な魔術師が聖杯に選ばれるとは意外だが、都合は良かった。
 既に限界を迎えていただけに、士郎がマスターに選ばれていなければ、正直危ない所だったのだ。
 しかし、これで抱かれる必要は無くなり、元より好きで抱かれたかった訳では無い。
 もっとも、戦争に誘う為の餌でもあった訳なのだが……

 ――――まあ、坊やにそんな餌は必要ないか。

 あれだけ偉そうな事を言っていたのだ。
 今更殺し合いを恐れて、契約を拒否する事はないだろう。
 そして、一度でも魔力を補充出来れば、後は……

「……確認するけど、私と契約してくれるのよね?」
「ああ。でも――――」
「――――でも?」

 続く言葉に、キャスターは身構える。

「契約って、どうすれば良いんだ?」
「…………は?」

 余りと言えば余りの言葉に、余裕の無い筈のキャスターが、暫し呆気に取られた。

「契約のやり方なんて、俺知らないぞ」

 当たり前のように言う、士郎。
 その物言いが妙に自慢げに聞こえたのは、キャスターの気のせいだと思いたい。

「……良いわ。全部私がやるから、坊やは承諾だけして頂戴」
「だから、坊やは……」
「契約も出来ない半人前が、何言っているのよ。それとも、自分が一人前とでも言いたい訳?」

 キャスターにジロリと睨まれた。ような気がする。

「……いや、半人前だけどさ」
「なら、坊やで十分よ。名前で呼んで欲しければ、それなりの力を私に見せなさい」
「む……分かった。俺を認めれば、名前で呼んでくれるんだな」
「ええ、喜んで。その時は、士郎様と呼んで上げるわ」
「様付けする必要は無いけど、分かった。とにかく任せる。やってくれ」
「はいはい、行くわよ……ああ、それと最後に確認しておくけど――――」
「何だ?」
「――――私の為に、殺して(戦って)くれるのよね」
「……そうだ。俺は、守る為に戦う」

 士郎には、殺される覚悟はあっても、殺す覚悟は今もって無い。

「そう。じゃあ、行くわよ……クス」

 そして、キャスターが暗に問うたその意味に、士郎は全く気付かなかった。

「――――告げる。
 我が身は汝の下に、我が命運は汝の(すべ)に。聖杯の寄る辺に従い、その意、その理に従おう――――」

 衛宮家の居間に契約に伴う魔力の渦が巻き起こり、

「――――汝に従う。故に我が命運、汝が術となるだろう……!」
「ああ……誓いを受けるぞ、キャスター!!」

 こうして二人の契約は成された。
 瞬間、士郎の左手に痛みが走る。

「――――ッ」

 熱い、焼きごてを押されたような、そんな痛み。
 思わず左手の甲を押さえ付けた士郎は、痛みに耐えながら手の甲を確認する。すると、

「な――――」

 まるで発火しているかのような熱さをもった左手には、入れ墨のような、おかしな紋様が刻まれていたのだ。

「それが令呪と呼ばれるものよ、坊や。
 私たちサーヴァントを律する三つの命令権であり、マスターとしての……証明でもあるの。
 まあ、好きに使えば良いわ」

 投げやりにも思えるキャスターの説明だったが、そうしている間にも士郎の魔力はキャスターへと流れ込んでいる。
 凄まじいまでの勢いで。

「が、ががが……」

 暴力的とさえ言える勢いで急激に魔力を吸い出された士郎が、膝を付き言葉にならない呻き声を上げた。
 そんな士郎を、冷徹な視線で観察するキャスター。
 そう、彼女は観察していた。
 この男で、自分の魔力はどれだけ補えるのか。
 この男で、自分は戦争を勝ち抜けるのか。
 この男は、自分のマスターに相応しいのか。
 そして結論付ける。
 その結論は、彼女が最初に予想した通りの物だった。

「……ここまでね」

 キャスターは意識して魔力の流れを止めると、己の現状を確認する。
 これで、現存には問題なくなった。
 しかし、只それだけ。
 前のマスターに現存ギリギリまで魔力を間引かれていたの自分にとって、この程度の補充では全く話にならない。
 とても戦う事は出来なかった。

 ――――私がバーサーカーだったら、死んでいたわよ、坊や。

 魔力の流れを止めた今でも、脂汗を流し苦しげな様子の士郎。
 冷ややかな視線で見下ろしながら、キャスターはそんな事を思った。
 事実、理性も自我もないバーサーカーなら、士郎を死に至らしめるまで強引に魔力を吸い尽くしていただろう。

 ――――良かったわね、坊や。私が優しい女で。

 そんな事も、キャスターは思った。
 もっとも、寄り代が死んでしまえば元も子もないのだが。
 ともあれ、自分はキャスター。
 魔力がなければ、何も出来ない。
 そして士郎の魔力の総量では、枯渇寸前のキャスターの魔力はとても補えなかった。
 召喚されたばかりの自分なら何も問題無かったのだろうが、それは今更言っても始まらず、何よりあそこまで偉そうな事を言っておきながら、その結果がこの体たらくでは失望もいいところだ。
 既に出ていた結論を、キャスターは改めて思い浮かべる。

 ――――この男は、使えない。

 それが、彼女の結論であった。
 サーヴァントはマスターを寄り代とし、マスターの魔力で現存する。
 魔力の供給は、言わばマスターの最低限の義務であり、それすら出来ないとあれば、これはもう戦う以前の問題である。
 半人前とは分かっていたが、まさかここまで使えないとは……
 絶対的に、魔力の量が足りなかった。
 その割りに、質的にはかなりの物があるのは首を傾げるところだが……まあ、良い。
 最初から、一度でも魔力を補充出来れば、それで良かったのだ。

 この程度の魔術師に命を預ける気は、これっぽっちも無いのだから。

 こんな半人前の甘ちゃんと命運を共にする気は、最初から無い。更々無い。
 要は、次の勝てるマスターへの繋ぎに過ぎなかった。
 とは言うものの、そう簡単に次のマスターが見付かる訳もない。
 だからこそ、魔力を根こそぎ吸い尽くし、死なせる訳にはいかなかった。
 お人好しであり深く考えない性質でもある坊やは、傀儡にするのに、これ以上ないくらいに容易い存在。

 つまりは、生かさず殺さず、である。

 その間に、魔力を徐々にでも補う。
 もう少し魔力が補充されれば、この家に張られている結界を強化する事が出来る。
 ほんの少しの魔力も結界の外に漏れないようにすれば、後は魔力を回復させながら使い魔を飛ばすなりして、次のマスターを捜せば良い。
 この身は、キャスター。
 その程度の魔術、魔力さえ足りれば造作も無い事。
 とにかく、魔力が総量に達するまで敵に気付かれなければ良いだけの話で、次のマスターが見付かるまでは、従順な振りをしてこの家に潜伏していれば良い。

 魔力を補える、他の方法。
 それは、食事。睡眠。そして、性交。
 既に蹂躙された身であった。
 目的の為なら、身を汚す事など何でもない。
 何でもないと思い込まなければ、やっていられない、とも言える。
 何にせよ生きる事を決めた私は改めて、

「抱いてくれない?」

 そう言ったのだった。
 当然、坊やは反対する。
 もう死ぬ心配はないのだから、そんな事をする必要はない、と。
 無様な姿を晒しておいて、何故ここまで身の程をわきまえない事が言えるのかとも思うが、正直なところ、坊やがそう言うだろう事は予想していた。
 だから、答えも用意してあった。

 要するに、全ては最初の予定通りである。

 そして私は、坊やに暗示を掛けた。
 簡単に掛かった。

 ――――あらあら。

 最早何も期待していなかったが、それでもこれにはガッカリだ。
 魔術師ともあろう者が、こんなに簡単に暗示に掛かるとは。
 しかも、先程私がこのお嬢さんに暗示を掛けたところを見たばかりではないか。
 つくづく、坊やは私を失望させてくれる。
 あそこまで偉そうな事を言っておいて、結局はこの様。
 呆れるのを通り越し、感心すらしてしまう。

 ――――駄目ね、この坊やは。ホント駄目。

 この程度の実力では、とても自分のマスターに相応しくなかった。
 まあ、所詮は使い捨て。
 これでは、傀儡にするまでもないだろう。
 傀儡にするのも、それなりに魔力を使うのだ。
 今は魔力を無駄使いする訳にはいかず、また傀儡には何時でも出来るのだから。

 ――――やれやれだわ。

 取り合えずコトが終わって暗示が解けた後、「ごめんなさい」と殊勝な顔で言っておこう。
 ついでに、「素敵だったわ」とでも言っておこうか。
 心にもない事を言うのは、慣れているのだ。
 とにかく、涙の一つでも見せておけば問題はない。
 言い方一つで何とでもなるのは、既に証明された事実だから。
 どうあれ、また下らぬ男に身を任せる事と相成った訳だが……

 ――――ホント、最低だわ。

 士郎の腹の下で適当に声を上げながら、キャスターはそんな事を思った。





「う〜ん……あれ?」

 衛宮家の居間で、大河がもぞもぞと身体を起こした。
 漸く、暗示の効果が解けたのである。
 しかし、目は覚ましたものの、未だ意識は混濁していた。

「……士郎?」

 それでも士郎を想う大河は、彼の姿を求め、ぼんやりとしたまま歩き出す。
 暗示の影響が残っているのか、その足取りは頼りない。
 やがて士郎の部屋に辿り着いた大河は、部屋の襖に手を掛けた。
 士郎は、部屋にいるのだろうか。
 その時、中から声が聞こえた。

 嬌声だった。

 甘い喘ぎ声、荒い呼吸音、そして粘着質な水気の音。
 それは紛れもない性交時の音であり、未だ経験の無い大河にもさすがに分かった。
 解ってしまった。
 暫く部屋の前に立ち尽くしていた彼女であったが、再びふらふらとその場を離れた。

 気付けば、縁側にいた。

 ――――そういえば、切嗣さんが好きだったなあ、ここ。

 そんな事を思いながら、大河は力無く縁側に腰を下ろす。

 ――――はは、首が痛いや。

 血の止まった首の傷に手を当てながら、そんな事も思う。


 雨は、小降りになっていた。


 ふと、他人の気配がした。
 士郎の気配では、ない。
 その気配が士郎でなければ、残ったのは一人しかあり得ない。
 だから、わたしは無視をした。
 無視して、ひたすら庭を眺めているフリをした。
 しかし相手は、わざわざ隣に腰を下ろす。
 わたしに何の用があるというのか。
 士郎と、あんなコトをしておいて。
 段々、頭がハッキリしてきた。
 と同時に、腹も立ってきた。
 絶対に、口を利いてやるもんか。
 わたしは、何も喋らない。
 彼女も、何も喋らない。
 沈黙の時間が、束の間続いた。
 雨の音が、ぱらぱらとやけに耳につく。
 結局、先に焦れたのは、私だった。

「何か用?」
「別に」
「だったら、あっち行ってくんない?」
「あら、ご挨拶だこと」
「ふん」
「あらあら」

 そう言ってこの人は、さも楽しげにくつくつと笑った。

「……ねえ」
「何かしら?」
「何で、士郎なの?」
「他にいなかったからよ」
「……そうなの?」
「ええ、そうよ」
「そんな、理由なんだ」
「ええ、そんな理由。だって、死にたくなかったもの」
「……」
「それに、どうせなら勝ちたいじゃない」
「……」
「だから、こうしたの」
「……」
「それが、どうかしたのかしら?」
「キャスターさん」
「何?」

 庭に視線を向けていたわたしは、隣に座るキャスターさんへゆっくりと向き直る。
 そして、その目を真っ直ぐに見据えて言った。

「わたし、あなた嫌いだから」
「当然ね」
「……え?」
「貴女が私を嫌うのは当然よ。愛する坊やを、戦争に巻き込んだんだもの」
「……」
「好きなんでしょ? 坊やの事」
「……」
「あら、肯定も否定もしないのね」
「……ふん」
「あらあら」

 そう言って笑った彼女の顔は、とても優しい物だった。

「さて、そろそろ失礼するわ。今の私に、睡眠不足は大敵なのよ」
「……勝手にすれば」
「ええ。勝手にさせて貰うわ」

 彼女は静かに腰を上げると、「風邪、引かないようにね」と、わたしの肩をポンと叩いて歩き出した。
 気遣われたのか、皮肉られたのか、わたしにはよく分からなかった。
 分かった事は、何故か首の傷が治っていた事だけ。

「ああ、それと大河(・・)

 そして彼女は、少し離れた場所で足を止め、肩越しに振り返りこう言った。

「私は貴女みたいな女性(ひと)、嫌いじゃないわよ」



 雨は、もう上がっていた。



続く
2006/11/16
By いんちょ


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