随 想(思いつくまま)

(9/26) 「自刻二十面相展」顛末記
事のきっかけ
 2006年の賀状は睦子喪中のため、単名で板前姿の自画像とし、「今年の目標は自画像を20枚彫ること」と添えた。刀が滑ったとしか言いようがない。今年2月の一双会(高校のクラス会)で別部君から「作業は進んでいるか」と問われ、わが身の公言不実行を恥じた。憶えている人がいる限り何とかせざーなるめえと思い立ったのがきっかけである。
構想の立案
 全体の構想から手を付けた。抽象的テーマ(たとえば喜怒哀楽など)毎に描いた自画像スケッチが多少はあったが、これを20枚並べるのは気が重かった。そこでこれらはボツにし、自分の生きざまを描いた自己紹介的なものにすることとした。
実行に着手
 先にまず会場をけやきコミセンギャラリー、期間は9月22〜5の4日間と決め、早々に予約した。何としてもこの日までに作り上げねばとわが身を縛った。5月ごろのことだったか、闇太郎に飲みに行き、Yさんに「無名人の葉書大の自画像展」ってどんなものだろうかと話しかけたところ、「それはあまり意味がない」という答えが返ってきた。「やるからには少し大きいものを、そして数を揃えることが必要じゃないの」とも。そこで自画像は6月中に完成し、多少大きい作品を数点新たに作ることにした。また、不特定多数の人を対象とせず、親しい知人との再会を主たる目的とした。
展示の方法など
 二十面相の展示は額縁代節約などから、折り本形式にして壁にぶら下げることにした。また作品ごとに一言添えることにし、文章を練った。意外なところで製本の技術が生きた。額縁はギャラリーに15個ばかり備品がありそれを借りた。壁面を埋めるために近辺の街並みを彫った旧作を加えることにした。別部君の作品を賛助出品の形で展示することとし、その諒解を得た。初日前日は巨大台風に襲われたが、幸い前々日に準備を終えた〈前日は休館)のはラッキーだった。会期中は会場で茶菓の接待はせず、コーヒー券を差し上げ、1階のコミュニテイルームで飲んでもらうことにした。この案は好評だった。ギャラリーの照明は予想外に電力を食うらしい。節電ムード緩和も幸いした。
来場者の面々
 早々にTさんが来てくれた。賀状は交換しているが初対面である。T氏が亡くなってからも引き続き賀状を欲しいと言って下さり、交換している仲である。
 この会のきっかけとなった別部君も千葉から駆け付けてくれた。吉祥寺ハーモニカ横町でビールを飲みながらの版画談義は楽しかった。
 二日目にはKさんが来てくれた。ピースボートの船室仲間だが、もう10数年会っていなかった。84日間の食事は美味かった、楽しかったねと語り合った。
 三日目には製本仲間が来てくれた。仲間の一人が展示作品を見て、「Nさんご存じ?」と。「知っているもいないも大の親友です」と答えた。N夫人と親しいらしい。その夜N君から電話がかかってきた、「明日行く」と。 N君とは定年後初めての邂逅となる。
 最終日
 N夫妻が来てくれた。懐かしく話題に尽きることがなかった。今は山行きに凝っていると、数日後、かって二人で登った西穂高岳の近年のビデオが届いた。
 また、是非会いたい人の一人Oさんが来てくれた。Oさんとも初対面である。亡くなった友人O君の娘さんである。夫人は北海道在住のため”ご名代”でもある。
 どうしても来てほしいYさんはどうしのだろうか。終了後電話をした。「メモしていたのに忘れてた」という返事。翌日後片付け直前の午前中に来てくれた。これでやっと閉幕することができると安堵した。
反響
 展示作品が自分史的なものなった時から、展示会は生前葬の様相を呈してきた。作品の出来不出来を、二十面相の構想がカモフラージュし、肩の凝らない楽しい会になったという声を多く聞いた。芳名録に記入して下さった約70名に、自称”生前葬展参列”の礼状を発送した。全部でかれこれ140人ぐらい来てくれたように思う。あとは展示作品をブログに登載する作業が残っている。
終わって思うこと
 今年はただ個展のことで頭の中は一杯だった。暑いと音をあげておれない夏を過ごした。目的を持って生きることは、老いてこそ、大切なことだと痛感した。1年単位の短い計画でもよい。目的を立てて生きよう、そんな気持ちになったのが今回の一番の収穫かもしれない。