随 想(思いつくまま)

(9/2)
隠岐旅行つれずれ追考
 先月下旬、隠岐群島を訪ねた。隠岐は50年前に公務で訪れたことがある。妻がかねがね「全国ほぼ廻ったが四国と隠岐はまだなので機会があればぜひ行きたい」と言っていた。どうやら手ごろな団体ツアーが見つかったらしい。最近突発的にめまいに襲われたりすることがある妻の健康状態からして、エスコート役で同行することとした。
 観光資源隠岐は一言で言うと”天皇の島”である。三宅島や八丈島も流人の島であり、流人文化の息遣いを感ずるが、隠岐は流人が天皇と言う大物だっただけに他の流人の影は薄い。また、八丈島は本土との間に黒潮が流れ、島抜けを一段と難しくしているが、隠岐の場合、親潮は話題に上がらなかった。
 景観面の観光資源は高さ257メートルという摩天崖の国賀海岸が中心だが、当日は北風が強く、遊覧船が欠航、知夫里島の赤壁を観、摩天崖の上の牧場を歩いた。
 山本幡男のこと
 牧場駐車場の一画に山本幡男の碑があった。かって辺見じゅんの「収容所からの遺書」を号泣しながら読んだ思い出が蘇ってきた。山本氏は当地の出身であったかと碑に見入った。それにしてもその脇に瀬島龍三の碑があることには違和感があった。
 二人の天皇
 隠岐に配流された天皇は後鳥羽上皇と後醍醐天皇である。後鳥羽上皇はあまり認識がないが、後醍醐天皇は太平記の世界でお馴染みである。後鳥羽上皇は19年住み当地で亡くなり、宮内庁管轄の墓地もある。一方後醍醐天皇はほぼ1年間居住の後脱出、幕府から政権の奪取に成功するのだが、ご在所跡とされる場所が2箇所あり、どちらが真相か、今となってはわからない。観光バスは2箇所(黒木御所、国分寺跡)とも周り、もっともらしい説明がなされる。またバスガイドの説明で、後醍醐天皇がつれてきた側室は「一番きれいな人ではなく、脱出の備え、頭のよい機転の利く女性だった」とあったが、帰ってから調べてみると、同行した女性は阿野廉子で天皇との間に5人の親王を生み、時の政治にも発言力を持つなかなかのヤリテ女性であった。ちなみに後醍醐天皇は33人の側室を持ち、38人(男19女19)の子がいたという英雄豪傑肌の男性だったらしい。
 隠岐騒動と中沼了三
 天皇に縁の深い島だけに尊王攘夷の思想は強く、明治の廃仏棄却の嵐は何処よりも激しく徹底したものであったらしい。隠岐騒動の理論的中心人物中沼了三は明治天皇の侍講も勤めた傑物だが、観光地白島海岸への途中通過した中村という村落の出身だというガイド嬢の説明があった。高校時代のクラスメイトN君が了三の係累であることを思いだし、感無量であった。
 旅の楽しみの一つに食事がある。今回は特筆すべき献立に出会わなかった。あえて言えば、隠岐特産という岩ガキを3〜7月の旬の頃に取り寄せ、食してみたいと思った。