随 想(思いつくまま)

(9/19) とくちゅうのこと
 とくちゅうとは徳島県立徳島中学校(現城南高校)のことである。私は1944年9月から45年7月まで在籍した。このたびたまたま20歳の時に書いた「20年自分史」とも言うべき変色した古いノートがでてきた。すっかり忘れていたことがいろいろ書いてある。言ってみれば20歳時のウンチみたいなものだが懐かしい。(毎年つけていた日記帳は十数年前に全冊シュレッダーにかけてしまったので現存しない。)
以下抜粋(正確ではないかも知れないが転記す)

徳中の校歌
 阿州の英才育むところ 栄えある歴史は流れて尽きず 古豪の誉はおおここにあり 称えよ歌えよ声高らかに 天下の徳中我らが光
教師群像(括弧内はニックネーム、教科)
 校長・深井源治(アナグマ) 某(高射砲) 増田(物理) 手塚(カボチャ・英語)
 渡辺克巳(チャイナ・漢文) 某(土佐犬・体操) 淺川めき太郎 某(タヌキ・歴史)
 某(デメキン・英語) 某(グラマン・配属将校) 某(石川五右衛門・英語・級主任)
 某(ポンプさん・数学) 高井(幾何) 
級友
 右横の席 荒川 、左 市川、 後 山本、
汽車通学の先輩、同僚
 湊、武宮、佐藤、野口

補足
 校長(アナグマ)は戦時中、生徒の本分は勉学にありと軍隊に抗した反骨の人として生徒の信望があった。インターネットで検索したところ詳しいことがわかった。
校長は生徒の勤労動員にも極力反対したと聞いていたが、実際には一度だけ行った。その場所は長年失念していたのだが、ノートには”タツ エ”とだけある。小松島市の「立江」で下車したのであろう。作業は敵の本土上陸に備えての山の陣地から海辺までの塹壕作り、兵隊の彫った土を運ぶ作業や、山をくりぬいた陣地まで支柱松丸太を担ぎ上げる作業であった。近くにヤマモモの自生林があり、赤い実が美味だったことが忘れられない。つわものどもの夢の跡は今や宅地開発で跡形もないのであろうか。
蛇足
 ニックネーム高射砲で思い出した数え歌。♪ひとつとせ 人に知られた徳中の名物教諭の棚卸しそいつあ剛毅だねー(略) ななつとせー何でもあります徳中は防空設備に高射砲そいつあ剛毅だねー ろくなことを覚えていない。