随 想(思いつくまま)

(8/2) 国際一輪車大会出場顛末記
 大会出場の動機
 国際一輪車大会が日本で開かれ出場した.当初は出場を考えていなかったが、10月ごろ急遽出場を決めた.そのきっかけはホスピス入院中のIさん(一輪車の先輩)からの無言の叱咤激励であった.出場資格を得る予選大会はまだ伊東と千葉が残っていたので、伊豆伊東大会に出向いた(われわれ年齢のクラスは出場者が少なく、落車せずゴールすれば3位以内という出場条件をクリアーできるが、10歳台の年齢層の競争は熾烈である.慎重に走って資格を獲得した<タイム100メートル35.96秒>)
 練習開始そしてエントリー
 公式戦出場は’98年の荒川ミニマラソン、5キロ、29分25秒の記録がある.その後殆ど乗っていないに等しい.なんとか100メートルを他人並みに走りたいと、目標を25秒に設定、11月から武蔵野中央公園で練習を開始した.また、長距離走と坂道に耐えるべく多摩川土手まで足を延ばしたこともあった.記録は徐々に向上し一頃25秒台を記録したこともあったが、その後後退、なんとか27秒台で走れるようになった.
 5月出場申し込み受付が開始され、100メートル走と10キロマラソンにエントリーすることにした(400M、800Mは大きく引き離されて走っている姿を想像し不出場とした).
 大会結果
 蓋を開けて見ると我々66歳以上男子のカテゴリーの出場者は、O氏(67)、H氏(72)、小生(72)、O氏(75)、N氏(77)の5人であった.十数人の出場を予想していたので驚いた.
 国立競技場での100メートルは5位(タイム34秒49)、荒川河川敷での10キロマラソンは4位(タイム72分45秒)という惨めな結果に終わった.
 100メートルは初体験の路面に眩惑され、マラソンは台風の余波による雨中走行など条件変化に対応できず、平素の力を出し切れずに敗退した.マラソンは自力完走が目標であったが、最後の上り坂は登れず落車、肩を借りての再乗車と、最下位でゴール、本来ならば失格のところ、完走扱いの温情に浴した体たらくであった.
 年齢の持つ意味
 5人の出場者以外にも愛好者はいるが、大会の世話役のため出場を見送らざるを得なかった人が多い.しかし、外国人の参加がなかったことなど考慮すると、一般的スポーツとして一輪車の限界は70歳ぐらいかもしれない.だからこそ歳をとっても乗っていることに意味があると若者は言ってくれるのだが.今回を機にそろそろ引退と考えていた小生の現在の心境は複雑である.
 体育系の心理
 いわゆる体育系でなかった私は「結果を出すために練習をすべてに優先・・・」という経験がない.今回それに近い生活を送った.あれもこれもというマルチな生活はしんどく耐えられない年齢になったということである.期日と目標に縛られる運動選手の心理と体力の管理の難しさの一端を経験した数ヶ月であった.そしてその結果が上記のような惨敗である.スポーツの厳しさをも身をもって味わった.
 国際親善の楽しさ
 今回の大会で親しくなった外国選手はアメリカのジルバートソン夫人である.マラソン競技で2キロ地点を過ぎた辺で私を追い抜いた53歳の婦人である.私を追い抜きラス前でゴールしたのだからさぞかし嬉しかったであろう.さよならパーテーでも夫君ともども話しが弾み、私も用意したささやかなプレゼントを贈った.
 甲子園ではないが私の「夏は終わった」.次なる熱中の対象に傾斜していこうと思う今日このごろである.