随 想(思いつくまま)

(7/9) T氏の死
 私の郷里松江の郊外で活動している「劇団あしぶえ」がNPO組織となった挨拶とカンパの要請があった。最低限のささやかなカンパを送ったところ、代表の園山さんから丁寧な礼状が届いた。その文末にT氏の訃が書かれていた。

 T氏とのお付き合いは私が松江労演に係わっていた61年頃に遡る。 劇団プーク「逃げ出したジュピター」松江公演を無事終え、ギャラ35,000円を支払った時以来である。当時松江労演の財政状態は多額の借金を抱え、ギャラ全額を一括払いできる状態ではなかった。各地の労演はいくばくかの未払い金を残すのが普通とされていた時代だった。私は正義漢でもなければ正直者でもない。初心(うぶ)だっただけだ。

以来お付き合いが続き、私の子も孫もプークの舞台をみて大きくなった。時々新宿で飲んだ。飲む店はいつも「大陸」という中華料理店だった。いつも話題は全額ギャラを払った話しと、米子労映演の佐野氏のことと園山さんのことで、それを大きく外れることはなかった。

「逃げ出したジュピター」松江公演の頃、園山さんはまだ高校三年生だった。既にプーク代表の川尻氏のファンであり、 プーク公演を待ち望んだ一人だった。公演後の座談会で将来の演劇に対する夢と熱烈な意欲を語って尽きることはなかったと、話題は常にそこに戻った。T氏にとって、初志を貫徹し大活躍している園山氏の存在は、地方の観客組織のオルグに明け暮れた自らの人生をふり返ったとき、いつも天空に輝く星であり、宝物だったにちがいない。

年賀状が来なくなった年、気がかりになり代々木にある劇団を訪ねた。いつもの話題でキープのボトルをあけた。そのとき初めて家族のことを聞いたら、
「チョンガーです」と言われたベレーの笑顔が最後となった。

 園山さん知らせてくれてありがとう。