随 想(思いつくまま)

(7/6) 樺美智子さんのことなど
 最初に断っておくが私は樺さんと何の面識もない。
「市民の意見」6月1日号の巻頭詩は樺美智子さんの「最後に」だった。

誰かが私を笑っている/こっちでも向こうでも/私をあざ笑っている/でもかまわないさ/私は自分の道を行く/笑っている連中もやはり/各々の道を行くだろう/よく云うじゃないか/最後に笑うものがもっともよく笑うものだと/でも私は/いつまでも笑わないだろう/いつまでも笑えないだろう/それでいいのだ/ただ許されるものなら/最後に/人知れずほほえみたいものだ

 樺さんってどんな人だったのだろうと興味が湧き、図書館で本を検索すると「友へ」という本が見つかり読んでみた。高校時代の親友にあてた書簡が中心の本である。彼女は高校時代すでに社会主義思想に目覚め、東京大学を目ざして一浪、合格と一途な正義感あふれる頑張り屋さんの姿が浮かび上がってくる。彼女は22年7カ月を一気に突っ切り、この自分は78年3カ月生きながらえている。人は生かされて生きているとはいえ、このギャップは一体何なのか。そんな思いに囚われた。
 6月15日多摩霊園のお墓にお参りすることにした。多摩霊園は我が家から遠からず近からず、お墓は21区画U種32側14番、正門からは最も奥にある。むしろ運転免許証更新の時に訪れる陸運事務所側からはすぐ近くだ。

50年ぶりの命日とあって或る程度の人出を予想していたが私が着いたのは12時頃、それから約1時間の間人影はなかった。般若心経は似合わず途中でやめ、今なお沖縄差別が続いている現状を報告した。このまま立ち去るのもさびしい気がして、近くの木陰で休んでいた。

 最初にあらわれたのは「樺さんの同級生です」と名乗る国分寺在住の男性で、「自分の車で来たため早く着いたが、同級生が正門で1時に待ち合わせる約束なので、間もなく到着するはずです」と言った。その間いろいろ話し合った。彼女が通ったのは神戸高校だったこと、お父さんが神戸大学の講師をしておられ、関西住まいだったこと、3年の時父親が中央大学に戻られて、神戸市内に母親と二人住まいだったことなどを知った。
 やがて同級生の一行が到着した。女性が3〜4人、男性7〜8人のグループだった。或る男性は「私は高校で一緒、一浪してまた大学で一緒でした。最近出た『樺美智子聖少女伝説』に私のことが出てきます。」とのことだった。背の高いなかなかの人物とお見受けした。
 以下は当日の会話と上記本の内容をまとめると次のようになる。あの詩は自分が樺さんからもらったものであること。それは高校最後のクラス会の日、白い色紙に色ペンで書かれたもので、「これもらってください」と、もう一人の男性と二人がもらった。我々二人が学級委員で樺さんは委員長だった。お苦労さんと言う感謝の気持ち、お互いに頑張ったよねという連帯意識があったかもしれない。樺さんがあんな死に方をしたので、大学の慰霊祭の時、全学連の合同慰霊祭でも私がこの詩を朗読することになり、公表されたものとなった。そうでなければずーっと私の手元で日の目を見ることもなかったかもしれないと。
 時は1960年、既成の左翼政党では飽き足らない、いわゆる新左翼が誕生、彼女はその草分け的存在。しかし新左翼は分裂を重ね霧散解消し、いまや力はない。彼女は時代のあだ花だったのだろうか。

 今日は高校時代のクラス会に出席した。いわゆる非合法活動で地下に潜ったとされるGなどの消息が話題となった。突然樺さんのことをしゃべるたくなり、マイクを握った。しかし聴いてくれた人は少なかった。しかしM君が「私は樺さんのお兄いさんと同じ職場で仕事をした。やはり一途な人だった」と。あえてこの文章を友好関係の項目に分類した。