随 想(思いつくまま)

(7/5) 徳島空襲のこと
 1945年7月3日から4日の未明にかけて、徳島市はB29の空襲を受けた。私の住んでいた社宅は当時上佐古7丁目西角にあった(今は5番町というらしい)。空襲警報の灯火管制下、期末試験の勉強をしていたかすかな記憶がある。焼夷弾が降り注ぐ時は豪雨のような音がする。地面に着いたとたん乾いた爆発音だ。我が家は直撃弾は受けなかったので、何とかわが家の火だけは火タタキで消すことが出来たが、消し終わって周りを見渡すと一面火の海だった。もうだめだと観念し、弟と妹に濡れ布団をかぶせ、4人は南に逃げた。道路には消防士のほか、人の姿は殆んどなかった。今にも焼け崩れるばかりの壁の下を通り抜け、堀に架かる橋を渡った(この橋は後日見ると焼け落ちていた)。眉山の山はクリスマスツリーの電飾ように輝いていた。気がついてみると田植えを終わったばかりの田圃の畦に立っていた。それでも不安で、水を張った中ほどまで進み、水に浸かったままで夜の明けるのを待った。夜が明けて佐古小学校校庭の炊き出しで、おにぎりをもらう列に並んでいるところを父の同僚が見つけてくれ、父たちとの再会を果たした。幸い家族8人は無事だった。
 かねてから被災した時落ち合う場所を決めてあったのだが茫然自失、全く念頭になかった。両親と姉、弟の4人は北へ逃げた。南へ逃げるという連絡不徹底のため両親は我々4人が焼け死んだものと思い、半死狂乱の状態だったと後日姉から聞いた。
 鎮火後、1日措いて焼け跡に立ったのだが、ものの見事に焼けていた。ガラスは融けていた。風呂場の水周りの辺にはジャガイモが美味しそうな匂いを発散させていた。火に強いのかワッフルの鉄板ぐらいが使用可能な品として残っていた。道路わきの溝の中でネコが一匹、じっと動かずにわれわれの行動を見ていた。
 疎開の荷物は荷造りしたまま灰になった。前日佐古駅まで搬出しておけば助かったのが後の祭りである(佐古駅は残っていた)。母は逃げる寸前に蚊帳を持って、父は自転車を引いて逃げたようだ。
 学校の友人とは突然の別れだった。中学校も焼けた。剣道の面の鉄格子だけが体育館の焼け跡に、うずたかく焼け残っていたという話を後日聞いた。当時校長職にあった父は後に残り、我々は郷里に帰ることになった。本土決戦の際は生徒を率いて迎え撃たなければならないと聞いていたので、これが最後の別れになるだろうと思われた。汽車が出る際、母は人前も憚らずに泣いた。(特筆すべきことを思い出した。このときは母と6人の子供全員が汽車の窓から乗車したことである。ホームの人が一人ひとりを押し込んでくれたのである。カッコ内後日追記)
 郷里に帰る途中、高松市が亦、同日空襲で焼けたことを知ったし、岡山の操車場も焼けただれた貨車の残骸が放置されていた。
 空襲の記憶を残しておこうと記憶を辿ってみた。二度とあってはならない。