随 想(思いつくまま)

(7/30) 多摩川源流を歩く
 小菅川を遡行
 去る17,8日の両日、多摩川源流ウオークに誘われ参加した。多摩川の源流と言う意識は考えたこともなかっただけに目からウロコ、好奇心一杯の旅であった。多摩川源流は奥多摩湖に注ぐ丹波川、小菅川に端を発することを初めて知った。今回は小菅川の雄滝、白糸の滝辺までの遡行ウオークであった。
 小菅村の命を預かる研究所
 小菅村は人口1,050人、山梨県に属する。一頃に比し人口半減、文字どおり過疎の村である。特色を持たないこの村は今やダムに沈むこともないのに、自然消滅してもおかしくない危機にある。村存亡の危機を脱するためのキーワードが”多摩源流の村”である。村の命運を双肩に担っているのが多摩川源流研究所の中村文明所長、井村主任ほかの少数スタッフである。我々はこのスタッフの親身な案内により、源流の旅を満喫した。清流、巨樹、そば打ち体験もさることながら、最も心打たれたのは村興しに賭ける誠意と熱意であった。
 地下水の世界
 例によって後追いながら、書物によって復習して見た。「多摩川水流紀行」は羽田沖から水干の水神社まで、極力、滝や淵を高巻きしないで水流を遡行した記録である。川は目に見える外の世界だけではない。「地下水の世界」は源流に発した水は川と名って流れるだけではなく、年速何百メートルという気の遠くなる速度で遅々として地下水流となって、われわれの生活を支えていることを知った。
 吉川英治と中里介山
 小菅川の源流最初の一滴は大菩薩峠まで遡る。大河小説”大菩薩峠”の作者中里介山は玉川上水の堰、羽村に生まれた。吉川英治は晩年青梅に住んだ。私は大菩薩峠を読破していないし、文学を語る資格はない。「東京文学散歩」の中で 著者野田宇太郎は二人を評して、文章の表現力では吉川の方が数段勝るが、吉川は戦時中「日本文学報国会」に属し戦争に協力したのに対し、中里は報国会を拒否した社会思想家であった。また中里がブルトーザーで切り拓いた大衆文学と言う世界を、吉川は整地しアスファルトで高速道路を造ったようなものだと、中里に好意的論評を展開している。
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