随 想(思いつくまま)

(6/15) 石見銀山跡を訪ねる
 世界遺産暫定リスト入り
 
石見銀山は島根県中部の太田、仁摩、温泉津の一市二町にまたがる銀鉱山遺跡である。今は人口500人の小さな村落であるが、戦国期から江戸初期にかけて一時は人口20万人を数えたといわれる。中世から近世の銀山の全容を良好に残した産業遺跡として注目され、2000年、世界遺産候補として登録された。
 全世界の銀の3分の1を産出
 1526年博多の豪商神谷寿貞によって発見された石見銀山は、戦国大名大内氏、尼子氏、毛利氏などによる争奪の的となった。関が原の合戦後は徳川家康が独占し、幕府直轄御料として江戸300年を生き抜いた。16〜7世紀の約100年間日本の銀は世界産出量の約3分の1を占めるほどの活況で、その大半はここ石見銀山で産出された。銀は中国はもとより、遠くポルトガルなど全世界に輸出され、世界経済に大きな影響を与えた。
 龍源寺間歩を歩く
 坑道は間歩(まぶ)と呼ばれ、間歩の中でも最大といわれる龍源寺間歩が一般観光客のため解放されている。この間歩は人が歩いて通れる高さがあるが、多くは這いつくばってやっと入れるぐらいの大きさだという。2.2〜2.5キロ四方の山岳地帯に500とも700とも言われる大小の間歩が上下縦横に張り巡らされている。間歩入口には487など番号が書かれた看板が立っているが、長年の風雨で埋まってしまった間歩も多いことだろう。
 付随する遺跡の数々
 産業活況に伴う遺跡が多く残されている。幕府の代官屋敷跡、金蔵番や夜警、御門番などがすんでいた中間長屋、下級武士の住宅、宿屋の類から神社、寺院、渡来工人達が住んでいた唐人屋敷跡などである。
 シルバーラッシュ
 シルバーラッシュで全国から集まった人々は幸せを掴むことができたであろうか。おそらく労働は苛酷を極めたであろうし、不測の事故で生命を落とした人も多かったであろう。刑場跡など見ると掟に背いたとして、生命を奪われた人もあったであろう。が、人間が生きてきた足跡は時間の経過が確実に風化している。
 このたび亡母の3回忌法要のため帰省、レンタカーでこの地まで足を伸ばしてみた。遺跡の類は常に哀しいが、巨大なエネルギーを発散させているのも事実である。
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