随 想(思いつくまま)

(5/9) 生前葬断念記
5年前の公約
 2006年の賀状で自画像を20枚彫ると彫ってしまった。筆ならぬ刀が滑ったとしか言いようがない。モデルが常に身近にいるのだから、その気になれば容易に可能だと考えていたのだ。鏡の前でしかめっ面をしたり口を大きく開いたりポーズするのだがイマイチ面白くない。無聊のまま数年が過ぎた。誰もこれに触れる人もいない。ところが今春、高校のクラス会でB君が「作品はできたか」と聞いてきたのだ。約100枚の賀状を投函したのだから、そう思っている人は少なくないはずである。幸にも市民運動から手を引いた状況にあるので時間はある。公約を履行することとし、まずは近くのコミセンのギャラリーを予約し、わが身を縛った。
生前葬的展示会の試み
 当初の計画では自分をモデルに喜・怒・哀・楽・恨・寂など抽象的テーマで制作する方針であったが、これがなかなか難しく、とても秋までに20点完成させる自信がない。試行錯誤の結果、自己紹介風にすることとした。高校卒業時まで遡り、自分の歩いた道、趣味などをテーマにする。作品に一言付け加える、となると自然に自分史風な趣を帯びて来たのだ。”生前葬的展示会”も良いではないか。「きっと虫が知らせたのね」、「奴もしぶといね、あれから10年になるんじゃない」どっちに転んでも不満はない。まだ体力のある今がチャンスかもしれない・・・とその気になった。
数日に亘る生前葬
 昨今家族葬の時代である。ならば生前に、お世話になった人々にお礼を述べ、本番はひっそりと家族で見送られて旅立つ、これは面白い。作品の展示だけでなく、過去のビデオ映像の放映、秘蔵写真の公開などアイデアは無限に広がる。展示会なら無視する人も生前葬ともなれば夫婦お揃いで、しかも香典を持ってくる人もいるかもしれない。こうなると、とても自分一人でやれるものではない。勢い妻、場合によっては親族も巻き添えにすることになる。一週間の展示会中、知人友人親族の部類毎に、日を決めて”直会”をすることにもなるだろう。雑用が一気に増え、健康にも自信がない。
断念
 妻に計画を吐露したら一笑に付された。思うに生前お付き合いのある方のみならず、不特定多数の人に来てもらうことになるのだ。やはり生前葬は有名人にこそふさわしいのであって凡人のするべきことではないとの結論に達した。凡人の生前葬は売名行為と紙一重、露出趣味ここに極まれりということになる。それには歳をとりすぎたというべきであろう。しばしの間、夢想を楽しんだ次第で一件落着。
 展示会の名称は「自刻二十面相展」と決めている。しかし、作品の制作は一向に進んでいない。夢想のみ先走り、日暮れて道遠しである。