随 想(思いつくまま)

(5/14) 「抵抗論」を読む」
 友人 I さんのメール末尾に「今は辺見庸の抵抗論を読んでいます」とあった。このところ私の頭は「国家とは何ぞや」という疑問が大きな場所を占めている。 最近の風潮は国内国外を問わず、「国家」が幅を利かせている。帝国アメリカに追随してこの国も主権在民といいながら国家主権の様相を呈しつつある。いったい国家って何だろう。見れば抵抗論の副題は「国家からの自由へ」とある。私の疑問に答えてくれる鍵があるのではないかと、迷わず借覧図書の一冊に加えた。
 国家あってこそ我々の生活が守られているって本当?国家とは階級支配の道具であると昔学んだけど?という思考の域から出られないで来た。読むほどに、国家は主権者の生命を奪っても合法であり罪に問われない。いわば「国内的には死刑、国際的には戦争という手段を持つ暴力装置である」というエンツエンスペルガーの言を紹介する。そうか国家って幻想に過ぎないのか。眼を覚ませ!騙されるな!という著者の叫び声が聞こえる。
 私が生まれた年に5・15事件が起った。「お国のために」が最優先され、命がけで戦争している兵隊さんに、国民全体が頭が上がらず、軍部の暴走を許した時代を経験として知っている。
国家が暴力装置であることは痛いほどわかる。なぜまた戦争できる国にしたいのか。戦争するためにこそ国家は存在する。
 著者は国家の存在に否定的ながら、国家を律する憲法の存在を否定していない。そして現行憲法の改憲に反対する理由として、現行憲法は国家を限りなく否定しているからだという。
 また国家はマスメデアという強力な武器を持っている。テレビ、放送、新聞は国家の一機関に過ぎない。現状はまさにその通り進行している。新聞に国家の暴走を止める力など期待してはいけないのだと警告する。
 一言一句に肯きながら読み終えた。

「抵抗論」ー国家からの自由へー
  著者:辺見庸
  発行所:毎日新聞社  2004年3月30日発行