随 想(思いつくまま)

(4/24) 市議選で思うこと
統一選挙は終わった
 
今、私は「落ち込んでいる」。4年前に応援したM市議が再起不能と思われる得票数で落選したからだ。今回は殆どノータッチだったが、前回精力的に応援した様子を知っている他陣営の人から、終盤の段階で電話掛けなどサポートしてほしいとの依頼があった。しかし、私は動かなかった。当日は1票を投じたが。
選挙運動は投票依頼行動に尽きる
 選挙に対する私の考えは、選挙運動を手伝うということは、駅頭で幟を持って立つことでも、チラシを配ることでもない。友人知人に投票を依頼することであると思っている。「あなたにはあなたの考えがあるだろうけれども、今回だけは私の願いを聞いてくれないかと説得することである」。いわば魂を預かる作業である。1度は許してもらえるが2度3度できることではない。2度目は自分の実力で出てほしいというのが従来からの私のすタンスである。これは父が市議選に出たとき身についたもので、以後一貫している。
敗因はと問われれば
 前回当選の打ち上げ会のスピーチで、私は次のことを話した。「応援した側の責任として、極力、議会を傍聴しよう、今後月に一回こうした市政報告会を持ってほしい」と(ホームページを見ている人は手を挙げてしてほしいと言ったところ、挙手をした人は2人に過ぎなかったのを受けて)。しかし、任期中ついに1回も報告会は開かれなかった(誤解があればお許しを)。これが今回の一番の敗因だと思っている。ダサイようだが実際に顔を合わせて話し合う機会の中に多くのヒントがあり、これが議員活動の王道である。話すべき実績を山のように持ちながらその労を惜しんだのは残念としか言いようがない。会を持っておれば、賞味期限切れのようなチラシや、新人のようなポスターを出さないで済んだかも知れない。アンケートの回答で或る運動を「理念先行の運動は評価しない」と一言で切り捨てていたが、票が逃げることはあっても得はない。会って話を聞くことから他人が関っている運動への思いやりも生まれるのだ。
有権者は無情
 市議の任期中の活動は最善を尽くしたと評価している。本人も自信満々だったと思う。しかし、このインターネットが曲者である。パソコンによる情報発信に力を入れれば入れるほど自分の実績を市民が承知しているとの錯覚、ひいては投票してくれるとの錯覚に陥る。しかし実際にHPを見ている人は数えるほどしかいないのが現実である。自信に溺れた裸の王様になっていなかったか。有権者は実績を認めても、役割を終えた消耗品として棄てるのに遠慮しない無情な存在なのだ。