随 想(思いつくまま)

(3/23) 「しろたま」と永井隆博士

  (添付されていた「如己」たちの写真)

 先に、一双会たより14号に「しろたま」5、6号が、このたび「話の広場」に1号が載った。青春のほとば

しるような情熱と、きらきら光る才能に圧倒される。5号の見返しには「永井隆博士にささぐ」との献辞が

あり、博士の「灰のための一生」という文章が、著書「亡びぬものを」から引用されている。また、6号に

は5号に対する博士からの礼状が掲載されている。「よい仕事をみせて下さってありがとう存じます」か

ら始まり、「・・・芸術が趣味としてもてあそばれている限り作品は芸術でもなく、生活でもなく中途半端

なくだらぬものになってしまうと思っています。」(中略)「このしろたまの若い人々を真の芸術一本道に

すすませなさい。二兎追うもの・・・」(以下略)、古野先生に対する私信の形をとっているが鋭く厳しい。

今、私の手元に「この子を残して」の復刻版(秋津書舎刊)がある。底本の発行日は「しろたま5号」と同

じ昭和2311月である。本書の「ステンドグラス」の章に、「・・・私の父方にも母方にも繪や彫刻の器用な

者が代々出ていた。しかし父は、繪かきは酒のみで怠け者で貧乏するから、なってはならぬと言って、私の

繪をかく筆を取り上げてしまった。それはたしか小學校へ入學するすぐ前だった。私はそれっきり繪をあきらめ
て、醫者になって父の跡をついだ。けれども今でもなお繪には未練がある。醫者にならずに繪を専門に

やっていた方がよくはなかったかしらと時々思う。・・・」とある。また、本書は随所に自作の絵が挿入され、装

幀も自ら手掛けておられる。上記礼状の真意が窺えて味わい深い。

ここで個人的な体験を一つ。私が古野先生に彫刻をやりたいと申し出たところ、師として袖師焼の尾野敏郎

氏を推薦された。尾野氏が父と松中同級である縁もあって快諾され、粘土で作った作品を批評してもらった

り、夏休みにはアルバイト(日給80円)の傍ら、土捏ねから焼き上げまでの全行程を経験させて頂いた。

その袖師窯に永井博士から大量の注文が舞い込んだ。注文は湯飲みや皿などの日常雑貨で、その全てに

「如己」(「己を愛するが如く他人を愛せよ」という聖書の言葉に由来)と書かれていた。如己たちは今
うしているだろうか、また博士は昭和26年5月逝去されたことを考えれば、「しろたま」も博の遺品の中
にあ

り、今も残っているのではないかとの思いが強くなり、失礼を顧みず永井隆記念館館長(博士の孫に当たる
徳三郎氏)に手紙を差し上げた。それに対して、(前略)・・・「如己」湯呑み、その他については添付のとお
り現在も大事に保管しております。今回のお手紙で、これらの経緯を知ることができまして嬉しく思っており
ます。我が家をはじめ、次女の茅乃の嫁ぎ先の筒井家、隆の弟元(はじめ)のもとには同じものが存在して
いたのを記憶していますが、”大量”とのことでしたので、果たして今も他のものたちが現存しているか気が
かりです。さて、もう一件の「しろたま」については、残念ながら弊館の所蔵の中からは見つけだすことがで
きませんでした。祖父没後60年、小生がこの仕事に携わって未だ10年ほど、暦年のうちに損失してし
まったものかと考えると、残念至極です。復刻にご尽力中とのこと、完成の暁には拝読できれば幸甚です。
(以下略)

 しろたま復刻を果し、博士の霊前に届けたいと思っている。

(付記)
 
一双会は松江高校25年卒業生の親睦会

一双会HP「話の広場」に投稿した原稿に、永井氏書簡の省略部分を加筆した。