随 想(思いつくまま)

(3/13) 特攻について思う

特攻について思う

この一週間特攻関係の本を読み継いだ。城山三郎の「指揮官たちの特攻」、内藤初穂の「桜花」と。なぜだ。そのきっかけは「一双会たより」に載った高橋君の「小学校4年生の思い出」だ。この文章は小学校4年生の頃、彼の隣に住んでいた木梨少佐という潜水艦乗り一家との親交の思い出である。

一双会の会合が近付き、なんとなく一双会のホームページを開いたところ、特攻機“橘花”の開発した読者からの便りが、追加記載されていた。“橘花”は木梨少佐がドイツから持ち帰った機密兵器の設計図を参考に開発されたもので、木梨少佐という名前を懐かしく思い出されたのであろう。

折しも私は「作家と戦争」と言う本を読んでいた。作家たちが戦争とどう向き合ったかという本だろうと思って借りて来た。しかし内容は作家たちではなく、城山三郎と吉村昭という昭和2年生まれの二人について書かれた本であった。吉村昭は純文学の道を目指すのだが一時戦史文学に手を染め「戦艦武蔵」がベストセラーになった。その後、「深海の使者」を最後に戦史ものから手を引いたとあった。「深海の使者」は日本とドイツがもはや潜水艦しか物や人を運ぶ手段がなくなった当時のことが書かれている。もしや木梨少佐のことが出てくるのではないかと、早速借りて読んだ。まさしく木梨少佐(文中は中佐に進級)は伊号二十九号で片道約3カ月を要するような過酷な航海の末、後三日もすれば日本に帰国という状況下、フィリッピン沖で敵の魚雷で沈没し、命を絶ったとの記述があった。そして彼が持ちかえった機密設計図をもとに特攻機「橘花」「秋水」「桜花」が作られたが、桜花以外は実戦に供されることはなかった・・と。(シンガポール軍港に寄港の際、重要な文書は要人が携え飛行機で日本に運ばれたとあるから、参考にされた設計図は水没をまぬがれたのであろう)。

木梨中佐が持ちかえった機密兵器の設計図から「桜花」が開発されたことを知り、改めて城山三郎の遺言の書とも云われる「指揮官たちの特攻」を読み、もっと詳しく「桜花」のことを知りたいと、中公文庫「桜花―極限の特攻機―」(内藤初穂著)を読み終えたと云う次第である。

閑話休題

彼の文章表題の「小学校四年生」は正確ではない。なぜなら昭和一六年四月から小学校は国民学校と改称されたからだ。まさしく我々は四年生の時、宣戦布告と真珠湾攻撃の放送を聞いた。私の場合、空っ風の寒い朝、集団登校の話題は当然“戦争”だった。私が「この戦争負けるんじゃない」と言おうとしていた矢先、誰かがそう言ってしまったため、私は反射的に勝つと言わざるを得ない羽目になった。このことを何故かはっきり記憶している。負ける根拠があったわけではなく単なるあまのじゃくだったのだが・・・

再び特攻のことに戻る。数年前に「永遠のゼロ」を娘の書架から借りて帰り、面白く読んだ。しかし、一歩間違えば特攻礼賛、戦争肯定、面白いが、まさしくヤバイ本だなと思った。しかしその後も百田尚樹と言う作家にひきつられるように、図書館の棚をあさり読んだ。一種のシンパであった。その後彼は囲碁の雑誌「囲碁ワールド」に登場したり、NHKの委員に名を連ねたり露出度を増した。「ついに彼も権力の側についたのかな」と目が離せなくなった。そして知事選で田母神氏応援、南京虐殺否定、東京裁判疑問視発言と続くに及んで、ついに本性を現したかと、私自身唸っってしまった。

彼の著作がベストセラーになり、田母神氏が予想外の票を集め、アメリカからの独立という麻薬のような言葉とともに、集団的自衛権を根拠に、むしろアメリカの尻馬に乗って戦争できる国になろうとしている。明らかに日本は誰はばかることなく「面舵いっぱい!」と叫んで進路を変えようとしている。これからの平和運動のあり方が問われている。従来の憲法九条改憲反対と叫んでいるだけで良いのであろうか、ここまできたかとの思いを強くしている。