随 想(思いつくまま)

(2/7) 楢山節考再考
 ボランテアを始めて半年
 昨年の8月、地域の高齢者ホームでデイサービス利用者のお相手というボランテアを始めて約半年が経った。利用者の健康状態にはかなり差がある。会話が成り立たない方に対しては、ど素人の私はいまだに、どうして良いか分からない。元気な方に対する対応は何となく一日は過ぎるが、果たしてこれでよいのかと逆に疑問が湧く。
 楢山節考と姥捨て
 かって深沢七郎の「楢山節考」という小説が話題を集めた時期があった。姥捨て伝説をテーマにした小説である。村には70歳を過ぎると”楢山参り”と称して楢山の神の元に参ずる掟があった。親孝行息子辰平は母親おりんの楢山詣でに、なかなか決心がつかない。気立ての良い働き者の嫁が来てから、おりんの家での役割はない。お参りの日に雪が降ることは僥倖とされている。おりんのその日、降ってきた雪に喜び、悠揚として辰平の背中揺られながら山路を行く。 記憶によれば、おおよそこんな筋書きだったと思う。
 また別の話も思い出す。ツンドラの凍てつくエスキモーの生活では、三代が生きてゆくことを自然が許さない。孫が誕生したある日、祖母は吹雪の雪洞の中で独り、遠ざかる橇を見送る。これも掟である。 
 今はどうか。
 日帰りの楢山詣で
 働き手の家族の足手纏いにならないように、ホームに足を運ぶのは現代の美徳だろうか。これらの受け手であるホーム側は、利用者各自の人生残された、いわば”オマケの時間”を無事、楽しく過ごさせて送り返せば、それで良いのだろうか。歳とったとは言え余力を有する方々に、生きがい、役割を持ってもらう場とするにはにはどうすれば良いか。本当はそこまで考えるべきであるが、現実にはそこまで手が回らないように見える。ホームが設立されてかなりの年月が経つが、その視点に立った
ノーハウの蓄積は貧しいように見受けられる。
 生命の尊厳を全うさせる対応の仕方はいかにあるべきか、と言う初心を忘れず、
これからも、お役に立ちたいと思うこのごろである。