随 想(思いつくまま)

(2/20) 谷中、根岸を歩く
 朝倉彫塑館
 かねてから一度訪れたいと思っていた。かって私も趣味として彫塑を学び、K氏のアトリエに通ったが、K氏は朝倉塾の門人であった。彫塑への刺激を求めての見学であったが、贅と粋を凝らした建築に魅了された。空襲で被災することなく残った幸運を思う(戦禍は幾多の貴重な資産を無に帰す<アフガンの仏像然り>)。帰途、谷中霊園の”朝倉文夫夫妻之墓”に合掌。墓石の文字は通常は彫られた凹版が多いが、これは凸版である。”門人之建”とあり、さすが彫刻家と妙なところに感動。谷中霊園の「五重の塔跡」、「徳川慶喜廟」を経て、子規庵のある根岸に出た。
 幸田露伴の小説で有名な五重の塔は、昭和32年放火で焼失した。設計図が残っているので復元は可能の由。高さ32mの塔が丘に聳える姿を想像すると、最新の高層ビルとは異なる感動をもたらすに違いない。復元が望まれる。
 子規庵
 正岡子規の旧居跡を訪ねる。子規は明治27年から亡くなる35年までここに住んだ。この間、漱石、鴎外、藤村、虚子等友人門弟が訪れ、近代文学の拠点の一つであった。建物は空襲で焼失したが、忠実に復元され、都文化史跡に指定されている。息を引き取った6畳の部屋の軒先には糸瓜がぶら下がり、さながら往時を偲ばせる(毎年糸瓜を栽培している由)。死の前日訪れた河東碧梧桐は痰のからまる喉から、上の句、間を置いて次ぎの句と紡ぎ出した絶筆3句を聞き取っている。
 絶筆三句
   糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
   痰一斗糸瓜の水も間にあはず
   をととひのへちまの水も取らざりき
 書道博物館
 子規庵の斜め向かいに、書道博物館がある。洋画家であり書家であった中村不折(1866〜1943)旧居跡に起ち、彼が独力で蒐集した中国及び日本の書道史上重要なコレクション、即ち、 殷代の甲骨に始まる青銅器、鏡鑑、璽印、経巻文書など重要文化財12点、重要美術品5点を含む東洋美術上貴重な文化財を収蔵し、随時その一部を陳列している。
 不折は明治、大正、昭和にわたり洋画界と書道界の両分野で大きな足跡を残した人物であり、子規や漱石とも交流があった。
 閑話休題
 この界隈は今や軒並み、休憩料金と宿泊料金を掲げるラブホテル街である。これを見て、子規はなんと詠むだろう(注、追記)。寄席「ねぎし三平堂」は残念ながら休業曜日、また豆腐料理で名の知れた「笹乃雪」は大きなビルとなっていた。
 (追記) 子規は江戸時代から文人墨客がたくさん住んでいた根岸という地を、研究に便利で閑静な地として、大変気にいっていたようです。明歴の大火で遊郭が日本橋から浅草に移され、根岸にはおいらんの保養する寮や妾家も軒を連ねていたようです。「妻よりは妾の多し門涼み」という句を残しています。ラブホテル街にはそれなりの歴史があり、子規もきっと驚かなかったことでしょう(2.24記)。
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