随 想(思いつくまま)

(11/9) 私の戦争体験
 戦争体験の記憶を辿って
 あるところから戦争体験を書けと頼まれ、拙い文章を書きました。活字になるのはもう少し先になりますし、このまま載るのかどうかも分かりません。それまでは未発表扱いのものですが、原稿をアップします。
(未定稿) 私の戦争体験
    開戦の日のことなど
 開戦の日は小学校(その年から国民学校と名称が変わった)四年生のとき、徳島県板西町(現板野町)で迎えました。「負けるんじゃない」、「いや絶対に勝つよ」と高揚した気分で登校したことを、昨日のように憶えています。少年雑誌は元帥大将の軍服姿が巻頭を飾り、日中戦争の戦場の模様や武勇伝で満ち、鬼畜米英と教えられ、運動会玉割り競技では大玉に画かれたルーズベルトやチャーチルめがけて、憎しみを込めて玉をぶつけました。すでに軍国少年でした。
 中学校に入ると、泊まりがけの生徒動員がありました。敵の上陸に備えて、山の要塞から海岸までの塹壕構築です。兵隊さんの掘った泥をモッコで運ぶ作業でした。要塞のトンネルはたくさんの部屋に枝分かれした大きいものでした。
   徳島空襲
 昭和二十年七月三日夜から四日未明にかけて徳島市は空襲に遇いました。我が家(市内、佐古に転居)家族八人は二組に分かれて逃げました。一足先に私は妹弟三人をつれて南へ、両親たちは北へ逃げました。平素から家族が落ち合う場所は決めてあったのですが、すっかり忘れて、炊き出しの列に並んでいるところを、父の同僚が見つけてくれました。両親は私たち四人が焼け死んだものと思い、半狂乱の状態だったと、後日、姉から聞きました。
   敗戦の日
 八月十五日は松江市郊外の村で迎えました。重要な放送があるというので、部落の人たちが我が家のラジオの前に集まりました。内容は殆ど聞き取れず、「こんなガイな(大きい)戦争だから、そう簡単には終わらないでしょう。ちょっとタバコして(休憩して)またやーわね」という部落長老の一言で、その場はお開きになりました。半信半疑、私の歴史上の一日は、なんともしまらないものでした。
   戦後の食料難
 ある日、体育の授業が終わり、教室に返ると、私の弁当が誰かに食べられていたのです。食料不足は深刻で、弁当を持って来られず、校庭で時間潰しをする人も少なくなかった時代です。無我夢中だったとみえ、机の周囲に飯粒が一杯散らばっていました。なんとも衝撃的な出来事でした。
   天皇の果たした役割
 父は今で言う高校の校長をしていました。
戦時中のある日、両親が深刻な顔をして「クビかもしれない」と話し合っていました。式典で教育勅語朗読の際、途中でつまったらしいのです。それは進退伺いに値する事件だったのです。
 天皇は現人神(あらひとがみ)であり、多くの若者が天皇のために命を捧げたのです。教育の恐ろしさに慄然とします。
 父は高校何周年かの記念誌に歴代校長の一人として寄せた一文の中で、前途有為な青年を、国策とは言え、多数戦場に送った慙愧の思いを吐露していました。
 しかし、その胸の内を私ら家族に語ることはありませんでした。
   希望を捨てずに
 君が代強制や愛国心育成の記事を見るにつけ、過ちを再び犯そうとしているように思えてなりません。
 改憲の動きは、すでに外堀を埋め、本丸に迫っています。なんとかしたいと思っているとき、ボランテイアのお誘いを頂きました。希望を捨てないで、自分にできることをやっていきたいと思っています。

 活字になった時は改めて紹介します。