随 想(思いつくまま)

(11/19) 憲法9条と25条

 「9期市民の意見広告運動」が動き始めた。このところ運動の実務から遠ざかっている身として、やや日和見的ととられかねないが、かっての四国遍路での若者との対話を思い出し、市民運動のありかたなどについて、感じていることをまとめておくことにした。

ここ数年、憲法9条改憲の動きが加速し、これに反対する市民の意見が5月3日全国紙に意見広告の形で掲載されるパターンが定着した。しかし、貧困の格差が拡大し、「人間らしい生活をする権利」が脅かされつつある現状を憂い、25条実現の要請が高まり、8期運動の柱は9条と25条の2本立てとなった。

 もともと意見広告という運動のスタイルは、高齢とか、健康面の理由で、デモに参加して意思表示できなくなった人たちにもできるという特性によって支えられてきた。本来の意思表示手段はデモ行進こそ力の表示だと私は信じている。現在の高齢者は戦争を経験し、戦争反対の意思は身近で強いものがある。自分の時代に戦争が起きないようにというより、戦争のない社会を次の世代に引き継ぎたいという強い願望がある。しかしこの高齢者世代は高度経済成長時代を経験し、貧困への危機感はそれほど身近ではない。

 一方、若い年齢層の貧困の現実は深刻である。非正規社員と派遣労働者との格差は大きく、格差が定着し、将来に希望が持てず、貧困の家庭に生まれた子の将来の展望はないのが明らかだけに子どもも産めない。若者にとって9条は身近でなく、25条こそ身近である。「戦争が希望だ」と放言する者すらいる。また意見広告運動は金持ちの運動であり、そんな金があれば今日のパン代に回したい。秋葉原の殺人は論外としても、もっと過激なアッピールの意思表示手段を取りたいと若者は考えている。若者は意見広告運動の柱に25条が加えられても、他人事だと感じているに違いない。9条と25条の運動の担い手が土台から違うのである。

 次の世代に平和を引き継ぎたいと願う高齢者層の願いと、その日の生活に追われ将来の展望が見えない次の世代との間の大きなギャップが存在する。「憲法9条も大切だけど25条も大切ね」これは決して間違っていないが、あえて誤解を恐れずに言うならば、25条を追加しただけで運動は成立するのだろうかという疑問が頭から離れない。

 代々木は若者の街である。テーブルを一つ路上に持ち出し、若者と対話するだけで、運動は大きく変質するだろう。市民運動の原点を見失ってはならない。

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