随 想(思いつくまま)

(10/6) 3・11死に神に突き飛ばされる」を読んで

 先ず装丁に興味がある私にとっては奇妙な本である。表紙、背表紙とも本の題名が凹版で表示してあるとは言え黒一色、やむなく図書館が、パソコンで出力した題名を張り付けたようなのだ。死に神のイメージか・・・それはさておき、久しぶりにHPの読書ブログを更新したい気持ちをそそられた本であった。大筋において著者に共感する部分が多く、読んでいて自分の考えが整理されてゆく気持がしたからである。以下著者の主張の紹介、自分が受けた印象などを峻別しながら書き留めておきたい。

 著者は加藤典洋、岩波書店刊である。著者は原発事故の第一報をアメリカカルフォルニア州で聞く。日本のメデイアの情報は肝心の知りたいことあまり流れてこないで、むしろ現地での外電記事の方が充実していたと云う。日本のメデアがその使命を喪失したと云われて久しいが、政府の垂れ流し情報に終始し、戦時中の「がんばれニッポン」に終始した。帰国して南相馬市の知人を訪ねた時、大手メデアは福島市まで後退し、専ら電話取材の記事を流し続けている現状を自分の眼で見て唖然としたと云う。チェルノブイリ事故後数年でソ連は崩壊した。日本が数年のうちに崩壊することだってあり得ないことではないと感じたという。それほど大変な事故でありながらその緊迫感がないのは何故だろうと著者は違和感を持つ。事故の責任の明確化、損害賠償、何一つとっても不明確である。その根底には原発の技術が軍事機密と不可分の関係にある事情があり、国策のタテマエと本音のずれを生んでいる。国策という魔物が採算を度外視したカネをばらまいているという。

 原発を持つと云うことは原爆の材料であるプルトニウムを所持することであり、何時でも核兵器を製造することができるということである。原発を放棄することは核兵器を持たずいわば丸腰になることであり、脱原発宣言は今後憲法9条の平和条項を基軸に生きていくという世界に対する意思表示なのだ。今や脱原発派が過半を占める情勢に見えるが、技術面で未解決の分野があまりにも多いことがその理由であり、丸腰になる決断があってのことではないように私には思われる。事故の責任者が有罪の判決で懲役に服する図は脳裏に浮かばないし、今後全国規模で放射能の被害が顕現化しない保証はないと思う。今直ちに脱原発を実現させることは難しいかもしれないが、原発に代わるエネルギを指向する道を目指すという著者の考えに賛成である。