随 想(思いつくまま)

(1/23) 「金色夜叉」の総括
 この1ヶ月
 この一ヶ月私の心の一画を占拠したのは「金色夜叉」だった。このいきさつは前掲随想1−17に譲るが、構想を練り、小道具を作るのも結局のところ”言いだしっぺ”がすることとなった。これはこれで楽しい。二回の上演?を終わり感じたことを、相手の言い分を聞かないまま書くこととした。
 1月17日の反省
 初めての試みであったが、いつもと異なる利用者の方々の表情に、企画の狙いは的はずれではないと感じた。成功と言ってもよいかなと自賛した。ただ、改善の余地はたくさんあった。@用意された舞台がテレビデスプレイ前の狭い場所で動きが不自由であり、次回は中央の広い場所にしたいと思った。A波の音はマイクで捉え、トライしている人の名前と音をみんなに知させるべきだと思った。Bカマボコ板の拍子木は力の衰えたお年寄りには大きな音を出すことには無理があった。C台本はあらかじめ全員に配布すべきだと思った。
 舞台設定の持つ意味
 前回の反省に立ち、より進化し、格調のある舞台にしようといろいろ考えて2回目に臨んだが、まず舞台設定で頓挫した。事前の相談もなく職員が用意したのは、円形の輪の中である。これではお芝居にならないのである。劇場は観客席の前一段高いところに舞台がある。この設定によって舞台は異次元の世界であり、俳優は異次元の世界の人に変身する。異次元の空間なればこそ、演技の稚拙や失敗があっても許されるのである。舞台は高いところといわないまでも観客席との間には一定の距離は欲しいのである。これが360度円形の人の輪の中とあっては、異次元もくそもなく幼稚園児のゲームの場であり、お芝居ごっこの範疇から脱しえない。この場では俳優は見世物であり、貶めた人を笑って遊ぶゲームになってしまい、これでは人格の否定である。まだまだ元気な老人の自己表現の場にしたいという、企画者の試みはこの時点で吹っ飛んでしまった。
  やっつけ本番で見えてきたこと
 お芝居をやる上で一番最初に決めるのが舞台設定である。利用者たるお年寄りは体の移動が自由が利かない。一度決めた場所を大きく変更するのは不可能と言ってよい。あえて異議を申し立て、利用者全員の席の移動を要請することなど私には出来ないことであった。自分たちのペースに利用者、ボランテア全てを押し込め引っ張って行くスタイルが感じられ、もしかしてこれは施設の体質かもしれないが、根が深い問題だと思った。気持ちの整理に時間がかかりそうである。たかがお芝居、されどお芝居である。