秩父巡礼記
やや旧聞に属するが昨年(2005年)10月、秩父34観音を巡った。
以下そのまとめである。
行程
第1日
7:16 最寄北町バス停から柳沢行きに乗車、西武線で秩父へ
10:00 1番札所四萬部寺出発
(1番,2,3,4,5,7,6,8,9巡礼)
16:50 9番明智寺着
武甲の湯旅館泊
第2日
8:30 武甲の湯出発
12番の後、田代栄助墓に参詣
14番付近で道に迷う、ご婦人と出会う
(10,11、12,16,14,13,15、18,17)
16:00 17番定林寺着
最寄民宿休みのため秩父駅前まで引き返し
第一ホテル泊
第3日
8:30 第一ホテル発
23番を出発、途中山道入口付近で転倒顔面出血のアクシデント
(19,20,21,22,23,24、25,26)
16:45 26番円融寺着
秩父ホテル泊
第4日
7:35 秩父ホテル発
(27,28,29,30)
17:00 国民宿舎両神荘着、泊
第5日
8:45 両神荘出発
(31,32)
旅館満員(龍勢祭り)のため秩父までバスにて引き返し
秩父ニューホテル泊
第6日
8:00 秩父駅前からバスにて松井田まで行き、歩行
椋神社境内で龍勢祭りを見学
(33,34)
16:00 34番水潜寺にて満願
満願の湯、皆野、西武秩父、柳沢経由帰宅
総費用
交通費 6,060 円
宿泊料 34,520
ご朱印 6,800
食事代 11,346
準備 6,700
その他 1,000
計 66,426
観音様に会う
巡礼や遍路の途中、必ず観音様または弘法大師にめぐり合えると言われている。今回の巡礼で強烈な印象を受けた事例すなわち観音様との出会いを書く。今回の巡礼はこれに尽きる。
12番野坂寺から順路を離れ、秩父事件首謀者田代栄助の墓に参詣した。その後通常のルートに複したのだが、右折の案内板を見落とし、14番を通り過ぎ16番近くまで行ってしまった。雨の降る中、やはり道に迷ったご婦人と遭遇した。二人で相談し、16番を先に打つことにし、一緒に歩いた。14番を打ち終えたところで「修行ですか観光ですか」と尋ねてみた。意外な答えが返ってきた。
「ちょうど1年前に息子を亡くしました。子供(ご婦人にとっては孫)の運動会で一生懸命に綱引き競技に参加したその翌日、誰にもみとられずに心臓麻痺で死んでいました。1周忌が終わったのでこうして、写真を胸に抱き、いっしょに廻っています」と。胸に抱かれた額の中には、高校生を思わせる若い青年の笑顔があった。28歳だったそうである。ご婦人には納め札を渡し、そのまま分かれたのだが、何としても悲しすぎるのだ。後ずっと「悲しすぎる、悲しすぎる」とつぶやきながら廻った。
妻の体調平癒が今回巡礼の願い事であったが、もっともっと悲しい人がこの世の中にいる。そのぐらい我慢せよ。汝は妻のためにどれほどの手助けをしているのか。観音様の慈悲にすがる前に、汝はなすべきことをしていないではないか。と問いかけられ二言はなかった。まさにあのご婦人は私にとって姿を変えた観音様であったのだ。
秩父事件の遺跡 出発前は秩父事件とワンセットで巡礼することとし、資料を準備したのだが
肝心の出発の際持って行くことを失念したため、田代栄助の墓を訪ねるだけの中途半端に終わった。墓の案内板はなく観光資源を粗末にしているなと思ったが、遺族がそれを断るケースもあり、詳しい事情は知らない。
転倒出血のアクシデント
音楽寺駐車場から順路は山道に入る。取り付けのセメントの傾斜面は苔が生えており、ヤバイと思った瞬間滑って真後ろに転倒した。尾てい骨だけは打つまいと一輪車の受身が瞬間的に去来したが、眼尻を眼鏡の枠で切り、血がおいずるに滴り落ちた。相当出血しているらしい。駐車場にいた人たちも自分の車で病院まで運ぶべきという思いと、車の座席が血で汚れることの心配とで戸惑っていることが見て取れる。近くの公衆便所の水道で顔を洗い、意外に打ち身による痛みがないのに安心し巡礼を続けることとした。頭部は笠で守られたらしい。
龍勢祭りを見る
10月の第二日曜日は恒例の龍勢祭りが椋神社の境内で行われる。各グループが工夫を凝らした手製の花火ロケットを打ち上げ、そのできばえを競うのである。打ち上げは15分おきであるが、その間にグループの自己紹介などがマイクで流れる。境内のブルーシートには○○同窓会席、xx従妹会などの看板が立ち、年に一度の旧交を温める場となっているようだ。秩父困民党が旗揚げした当神社の境内は屋台のイカ焼きの匂いが立ち込め、酒盛りの手拍子に包まれていた。これぞお祭り、祭りの原点を見る思いであった。
納め札を特製
納め札は各人趣向を凝らしたものであるべきという思いがあり、木版画で特製、九条実現と表示した。
(表面〈四つに折る〉)
(裏面〈包み込まれた内部〉)