私稿へんろ考

   多摩を歩いて四国を想うの記

    ---この小冊子を小樽のO君と

     昭子胎内の新しい生命に贈る---                                 は じ め に

 四年前、四国霊場八十八ケ所を巡拝した。順打ち、歩いて一二〇〇キロ、五十日間の旅であった。その後、頼まれて、遍路の話をする機会が二度ばかりあった。

 お遍路願望は老若を問わず、思ったより強いものがあった。その際、多摩八十八ケ所巡拝案内書を頂き、多摩霊場の存在を知った。それ以後、遍路に出たいという人に「四国まで行かなくても身近にあるようですよ」と言ったものの、多摩八十八ケ所がどんなものか知らないまま勧める無責任が気になっていた。この目で確かめてこよう、O君の平癒と昭子の無事出産も祈ってこようと、多摩霊場を廻ることにした。

 四国霊場一番札所霊山寺(鳴門市)の門前は市をなす賑わいである。多摩霊場一番札所が私の住む市内(武蔵野市)にあることを、町興しにつなげることは出来ないか、そんな思いもあった。

 多摩八十八ケ所は昭和九年(一九三四)、弘法大師ご入定一一〇〇年を記念して多摩所在真言宗の寺をもって編成された四国の写しである。高幡不動に本部を置く龍華会が毎月参拝者を募集し、バスによる巡拝が行われているが、歩いて廻る遍路は殆どおらず、巡路図も見当たらなかった。それでは「道はない、私が歩いた跡が道だ」と言った中国の偉人の言葉よろしく、多摩全図の地図を購入、札所の所在地を書き入れ、時計回りの一環を描いてみた(巻末に貼付)。

 時折りしも読売新聞武蔵野版で二年間にわたって連載された「多摩へんろ」がようやく完結、これが格好の案内書となった。

 三月十六日から十三日間かけて、約三百キロを歩いて来た。多摩と四国を重ねながら遍路の意味を考えてみた。おへんろに関心ある人に読んでもらえれば幸いである。   


                             目 次

はじめに  ……………………………………………… 四

第一日   発心の道場へ  ………………………… 八

第二日   参拝の作法と納経  …………………… 十

第三日   お接待  ……………………………… 十二

第四日   女遍路の一人旅  …………………… 十四

第五日   住職との会話  ……………………… 十六

第六日   へんろ宿の話  ……………………… 十八

第七日   歩くことの意味  …………………… 二十

第八日   弘法大師のお試し  ……………… 二十二

第九日   へんろみち  ……………………… 二十四

第十日   祈ることと煩悩  ………………… 二十六

第十一日  車のお接待  ……………………… 二十八

第十二日  一期一会  …………………………… 三十

第十三日  空海の偉大さ  …………………… 三十二

あとがき  ………………………………………… 三十四

   多摩八十八ケ所一覧

   多摩八十八ケ所順拝巡路図(略)


                                 八

第一日 発心の道場へ

 我が家を出発、一番安養寺に向かう。出発して間もなく、碁敵A氏に会う。勿論こちらから名乗らなければ白装束姿の私には気がつかない。彼は肥満防止のウオーキング中だという。こちらも運動不足解消という点では変わらない。現代の遍路は最高の贅沢だといわれる。健康、時間、金の三つが揃わなければ出来ないからである。

 白装束姿に好奇の眼を向ける人はいない。どんな格好にも驚かないのが大都会東京である。四国では一再ならず手を合わせてあいさつされた。今も弘法大師が廻っていらっしゃる、という信仰が生きているのである。或る時は運転中のハンドルから手を離し、手を合わせて拝まれ、びっくりした。

 勝手知ったる道を三番井口院(三鷹市)へ向かう。一都六県にまたがる「関東八十八カ所霊場」の七十番札所でもある。寺には四国霊場のお砂踏みが設けられている。全国津々浦々に四国の写しがつくられているのであろうか。不遜ながら、甲子園の球児たちが砂を掻き集める状景を思い出してしまった。(失礼の段お許しを)

 六番常性寺(調布市)を打ち終え、多摩川の河川敷にさしかかる。草の道が足に優しい。舗装された道がいかに歩くのに苛酷かは四国で経験済みである。昔の人は多摩の行程を一週間でまわったという。当時の道は今より足には優しかったであろうが、大変な健脚である。

 多摩川を渡る。遍路のマナーで、橋の上では杖をつかないことになっている。お大師さんが橋の下で休んでいらっしゃるかも知れないのだ。

 七番威光寺(稲城市)に着いたのは五時を少し過ぎてしまった。失礼を承知で納経を受け付けてもらったが、新東京百景、弁天洞窟の見学は叶わなかった。

 さて宿泊予定の、よみうりランドホテルには昨日も電話したが通じない。どうも廃業したらしい。近くにはラブホテルしかない。交通網の発達した都会である。毎日帰宅し、翌日出直すことも容易だが、漂泊の旅に出るのだと言い聞かせ、帰らないことに決めていた。

 電車で調布まで引き返し、ビジネスホテルに泊まった。

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      十                            第二日 参拝の作法と納経        

 京王よみうりランド駅下車、梨畑と丘陵の田園地帯を九番宝蔵院(稲城市)に向かう。レンゲや、梨の花が咲く頃は素晴らしいことだろう。

 霊場での作法は、山門で一礼、境内に入り、手水で身を浄め、鐘楼があれば鐘を撞き(参拝後に撞くのは戻り鐘と称し誤り)、線香と灯明を捧げ、賽銭(供物に代えて)をあげたうえ、般若心経など読経、納め札を函に入れる。本堂の次は太師堂と繰り返し、納経所で墨書授印を受けた後、山門で一礼、退出する。

 遍路に納経は付き物だが、本来、納経とは参拝者の願いを確かに承りま

したという寺の発行する証書のようなものであり、四国では目前で墨痕豊かに手書きしてくれる。この神技とも言うべき達筆がありがたく楽しい。多摩では予め印刷された納経書が用意され、住職不在時に留守番の主婦でも対応できるようになっている。おかげで納経できなかったところは一つもなかった。

 納経料は三百円と聞いていたが、お気持ちだけで結構ですと言うところ、二百円でいいですと言うところ、小銭を切らし千円札を差し出し「これで」と言うと、請求しないとお釣りをくれないところと、区々であった。金額が統一されているほうが遍路にとっては気が楽だが、本来あるべき姿はどちらかと聞かれても私には分からない。多くの寺がいろいろの札所を兼ねている。そのうち自動販売機が登場するかもしれない。(失礼)

 多摩霊場では大師堂が別棟として在るところは少なく、代わりに修行中の弘法大師像が建立されているところが多い。水場はなく、あっても水が涸れているところ、鐘があっても自由に撞けないところも多い。殆どの寺に香炉、灯明立てはなく、本堂の扉は閉ざされている。防火防犯の配慮もあろう。持参した蝋燭や線香はあまり使うことなく持ち帰った。また、札所ともなればトイレやちょっとしたベンチのひとつもほしいところだ。

 八番高勝寺(稲城市)は水場に清水が湧き、境内がよく掃き清められ、灯明を立て久しぶりに札所を廻っている感慨に浸った。高勝寺に限らず、きれいな寺の住職は、「境内に足を踏み入れたら、気持ちが落ちついてこそ聖域、これが先ず寺の基本」とおっしゃる。基本の守られていない寺も多い。

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                                十二

第三日 お接待

 昨夜は予定していたサンピア多摩(多摩市所在、厚生年金施設)が満室のため、京王プラザホテル多摩に投宿、遍路らしからぬ豪華な一夜となった。

 昨日十番高蔵寺(町田市)に向かう途中、柿生付近の路上で、中年男性から現金を頂いた。テッシュペーパーにくるんだ千円札を差し出し、「頑張ってください」と繰り返し励まされた。おそらく四国出身の方か遍路の経験者であろう。四国では金品はじめいろいろな激励を受ける。これを「お接待」という。よもや多摩でお接待を受けるとは思っていなかったので、びっくりし、感動した。

 私は小学生の頃四国三番札所金泉寺のある町で育った。お遍路さんが門前で経を唱え、鈴の音がすると、米櫃から一掬いの米を持って出て、胸のずた袋に入れてあげたことを憶い出す。

 四国遍路の途上、私が経験した初めてのお接待は、乳母車の助けを借りて歩いていた老婆から、「私の代わりにお詣りしてきて下さい、賽銭です。」と言って百円玉二個を渡されたときであった。道中五十日のうち四十日はなんらかのお接待を受けた。特産のビワをもらったり、車に乗せてもらったり、自宅で昼飯をご馳走になったり、無料で泊めてもらったりした。遍路宿の女主人から「お接待を無碍に断らず、ありがたくお受けし、納め札を渡すのが礼儀です。お接待を受けるのはあなたが遍路の格好をしているからであり、四国の人がみんな親切と思ったら大間違い、謙虚な気持ちを忘れないで」と教えられた。

 今、四国は外人の遍路も多い。「オセッタイ」という片言が返って来たのに驚いたこともある。

 弘法大師さんはお接待を喜ばれたという。奪って得るよりも施す喜びを教えたとされる。施しはお金や物がなくても誰でも毎日できる。無財七施の修行の一つに、いつも笑顔を絶やさない「和顔施」がある。

 今は癒しの時代と言われる。見ず知らずの人から受ける親切は嬉しく、自分も亦、他人に優しくなっていく気がする。忘れていた他人を信ずる心がよみがえってくる。四国のもつこの優しさに、蝕まれた現代人の心が癒されるのであろう。

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                                   十四

第四日 女遍路の一人旅

 昨日は予定した昭島のホテルが満室のため、立川まで戻らざるを得ないと覚悟し、青梅線中神駅まで疲れた足を運んだ。駅の近くに旅館はないものかと探していたら、「四国から帰られたのですか」と勤め帰りの女性から声をかけられた。私は昨日帰ってきましたとのこと。聞けば今回は三十一番竹林寺から打ち始め、民宿くももを足場に、三十九番延光寺までを歩いてきたとのこと。先年娘を亡くし、それを機に廻り始め、休暇のとれる時に打ち接ぎ、やっと高知県を打ち終えたとのことであった。そう言えば私もあの地でくももを宿に逆打ちで廻っているという女性に出会ったことを思い出す。くももは相変わらず女性に人気があるなと懐かしい思いに浸った。そう長話をするわけにもいかず、納め札を渡し別れたが、彼女とあそこでお会いしたのもお大師様のお引き合わせかと、多摩にもお大師さんはいらっしゃると思った。

 女性の一人遍路は勇気がいる。四国でも何人かの女性との出会いがあった。 三十七番岩本寺(高知県窪川町)の宿坊で食事をともにした若いOLは、一番困るのはトイレです、どうしていますかと真剣な眼差しで聞かれた。雉を撃つという言葉ご存知ですか。私は三回撃ちましたと言いかけて、女性に恥ずかしい思いをさせてはと言葉を呑んだ。オートバイで廻っている皮ジャンのよく似合う女性だった。

 もう一人は、結願の報告に一番霊山寺に戻った夜、これから遍路に出発するという女性が「お邪魔していいですか」と部屋に入ってきた。修行ですか観光ですかと聞いてみた。「どちらかと問われれば修行です。息子が大学院を出た途端に就職先をはじめ、何一つとして自分で決められない人間になってしまいました。医者によればこれはアダルトチルドレンという現象で、最近自立できない若者が増えているのだそうです。私は教育熱心な母でした。私の教育が誤っていたのか悩んでいます。その答がこの旅にあるのではないかと、主人の許しを得て出てきました。これから先、道中不安でたまりません」と。時代の変化とともに悩みも変わる。「困った時はきっとお大師さんが助けてくれますよ」と言って励ましたことを思い出す。答は見つかっただろうか。

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                                十六

第五日 住職との会話

 参拝を終え納経に向かう。住職さんが出てこられた場合はこれも何かのご縁と説教をお願いすることとした。四国では叶わないことである。

 最近の世相に対し感ずることは?との問いかけに対しては、∇親子のコミュニケーションの断絶が心の荒廃を招いていますね。親子つまり親にはまたその親があり自分がいるということが判らない子が事件を起こしています。仏壇のある家の子はあまり事件を起こしていません。

∇みんな忙しすぎる。他人と比較するのでなく自分の幸せをみること。小欲知足、足るを知ることが大切だと思います。

∇新しい世紀は心の世紀だといわれる。しかし、仏教の出番だという傲慢な態度をとるべきではありません。お釈迦様も世の中を変革せよとは一言もおっしゃっていない。人の世はいいことばかりではない。ひたすら耐えること、最後は仏様が救って下さるとしか言えません。

∇お茶碗、お米みんな身の回りのものに「お」が付いています。身近なものの人格いや存在を認め、感謝し生活してきました。これが仏の教えです。仏教が身近にありました。ジャンケンポンという言葉も仏教の「料簡法意」から来ています。話したいことは山ほどありますが、今は宗教の自由ということで、逆に学校など公の場では話をさせてもらえません。

∇環境の問題が気懸かりです。仏教の立場からすれば、人は自然に守られているのであり、自然を守れなどと言うのは本末転倒ですが。

 仏教を一言で言うとどう言えばいいのでしょうと質問を変えると、

∇諸行無常でしょう、万物常に一定していない。今日の私は明日は違う。

∇私は難しいことをいいません。一生懸命生きることと話しています。

∇仏教は他の宗教と違い、神や仏そのものになれと教えています。キリスト教やイスラムの教えでは神の教えを守れと言いますけれど、神そのものになれとは言いません。彼岸からこちらを見る、仏の心にはなれるということでしょう。

 多摩を廻っていて四国にない素晴らしさ、従職さんの本音が聞ける。なんとも嬉しい。ご迷惑でしょうがご容赦を。

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                                十八

第六日 へんろ宿の話

 府中、日野、昭島を経て八王子市まで来た。今日の宿は夕やけ小やけ文化園を予定していたが休園。やむなく駅前周辺で宿を探そう。

 四国の札所の近くには必ず遍路宿があり、寺によっては宿坊を営んでいる。昔の遍路宿は自炊が普通で、喜捨で得た米を炊き、旅を続けるにはなくてはならないものであった。今では民宿がこれにとって変わり、波乗りの適地ではサーファーの宿に衣替えしたところもある。私が廻った頃は二食付き六千五百円が相場であった。

 遍路宿に着くと先ず「お杖を洗いましょう」と杖の先を洗ってくれる。金剛杖は弘法大師そのものであり、大師の草鞋を脱がせ、足を洗って差し上げる習慣が今に残っている。パジャマまで持って旅をしていた私の荷物を見て、かみさんは不要なものを宅急便で送り返し、お接待ですと汚れたものを洗濯してくれ、遍路の心構えを説き、今まで体験した奇跡のような遍路のエピソードの数々を聞かせ、歩き遍路は特別ですよと般若心経デザインの布団で寝せてくれたりする。また、遍路の疲れ具合いを的確に見抜き、明日は、あの辺まで行くがよいとアドバイスしてくれる。途中、車のお接待などで予定より早く宿に着いた時は「もう少し先まで行きたいでしょう。宿はキャンセルしてもいいよ」と。逆に予約なしでも泊めてくれもする。

 寝袋持参の遍路も多い。弘法大師が一夜を明かされたという伊予大洲市の十夜ケ橋は修行のため橋の下で通夜する人のために、橋の袂の寺でゴザを貸してくれる。夏は蚊の大群、冬は吹き抜ける寒風のため、とても眠れたものではないという。市街地ではワルのおやじ狩りならぬ遍路狩りの話も耳にした。物騒な世の中ではある。

 さて、八王子の今宵はカプセルホテルと決めた。共同浴場は大きく快適、共同トイレは清潔で、便器はウオシュレット付きだ。自動洗濯・乾燥機があるのも魅力だ。靴はフロントに預け、ロッカーの鍵と引き換えというシステム。夜食、下着も売っている。二段重ねのカプセル、宇宙旅行の気分だ。料金は一泊三千五百円。毎日はこたえるがたまにはこれもよい。

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                               二十

第七日 歩くことの意味

 花遍路という言葉どおり、春は遍路の季節だ。日足が長く陽気も良い。七日目ともなると、足のマメもつぶれて硬くなり、ようやく自分の歩く距離の見当がついてくる。不要と思われる着替えを郵パックで送り、少し軽くなった。旅に出る前はカメラを持てばいい写真が取れそうだし、スケッチ道具を持てばいい画が描けそうで、つい持ち物が増えてしまう。だが便利な地域を歩くのだから、着替えが各一枚あればそれだけで十分だ。

 路銀は郵便局のキャッシュカードで、土日休日を考えながら最小限の現金を補給しながら歩く。昼食の心配も殆ど気を使わないで済む。四国では道中一軒の店もない山道などが何ヶ所かあり、宿でお弁当を作ってもらったりしたが、多摩は都会だ。食堂がなくても程よくコンビニが出現する。

 歩き遍路は便利さに背を向け、経済性を度外視する旅である。バスに乗れば時間もエネルギーも節約され、宿泊費も浮く。何故歩くか。静かに自分と対話する環境には、歩くのが最もいい条件だと私は考えている。密教では、宇宙のすべては全知全能の大日如来が姿を変えたものだという。草木全てに佛性が宿っているという意味は歩かないと分からない気がする。日毎に、新しい花が開花し、季節の移り変わりを実感し、虫や鳥など小動物の営みに気がつき、その中で自分も生きている、いや生かされて生きている。目で見るどの一つを欠いても自分は生きていけないような気がしてくる。 四国の遍路道は人が通らない山道も多い。もしここで躓いて捻挫し、動けなくなっても明日発見される保証はない。弱くて、ちっぽけな自分に気がつく。遍路の原点は歩くことにある。これは歩いてみなければ分からないことでもある。

 さて今日はここ、あきる野市で泊まろう。道路で横になりうつむいて地図を広げていたら、てっきり行き倒れ人ではないかと二人の婦人が心配そうに寄って来てくれた。心配をかけたことを詫び、しばらく行を共にしたが、三才児に一律公費で難聴の検査をという都知事あて誓願の署名活動に歩いておられる方であった。これも何かの縁、一筆名を連ねることとした。

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                             二十二

第八日 弘法大師のお試し

 昨夜は国民宿舎止水荘に投宿。事前調査では分からなかった寺の場所、道路事情を管理人から詳しく聞くことができた。その結果、予定した全部の寺を一日で廻ることは不可能なことが分かった。五十番宝蔵寺(檜原村)往復をバスに乗れば、計画どおり一日で済ませることができる。全行程を歩く意志を貫くか否か。修行の意志の強さが試されているのである。遍路仲間ではこれを「お試し」と呼ぶ。結局、西東京バスのお接待(これはジョーク)を受けることとした。修行が足らんぞ!の声が聞こえる。

 四国土佐路は修行の道場とされる。阿波発心の道場を終え、室戸岬の二十四番最御崎寺までは約八十五キロ、この間に札所はない。途中、車で遍路中の夫婦から「これから二十四番まで行くから乗っていきませんか。この間は長いですよ」と勧められる。折角ここまで歩いてきたのだ。最後まで歩こうとお断りした。あの時車に乗っておれば最後まで歩くことはしなかったであろう。もう一つ経験したお試しの話を。

 愛媛県川之江市の番外札所の椿堂、車庫二階の通夜堂で無料で泊めてもらった。翌朝の勤行、庭掃除の後、住職に「家の人は喜んで出してくれましたか」と聞かれた。問わず語りに、定年退職後、市のシルバー人材センターで庭木剪定の仕事をしていると話したところ、「あんた一週間ばかり遊んで行きませんか、この椿(弘法大師が悪病を封じた杖から芽生えたとされる大木、今は三代目)を手入れしてほしいのです。センター並みの日当は出しますよ」と。人にものを頼まれればお大師さんの意思として逆らわず従うようにと教えられてきたし、極力そうしてきたつもりであった。まして大師所縁の木、花も満開を過ぎ、手入れの時季も申し分ない。本来ならば喜んでお引き受けするのが遍路の務めではないか。しかし、頭の中はいかにして断るか、その理由を探すことで一杯であった。

 結局、強い希望を振り切る形で出発したのだが、今思えば、どれだけ人に優しくなったかという、お試しであった。今でも少しばかり残念な思いをしている。

上記椿堂のHPへ(6/6設定)

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                              二十四

第九日 へんろみち

 バスを使ってやっと計画を消化することができた。無住の五十四番、五十五番(ともに日の出町、納経は五十九番大悲願寺〈あきる野市〉で)も全部廻った。しかし最後の寺に着いたのは納経の時限を大きく過ぎていた。どうせ印刷の納経書だと不遜な考えを起こし、歩き遍路に免じて許してもらった。しかし次の寺で歩き遍路とはいえ、本場四国でも遅刻は許されてないと注意を受けた(昨夜の寺から連絡が入ったのだろうか)。お大師さんの戒めとして受け止め、今後は五時を過ぎたら、たとえ日程が後ずれしても翌日に回そうと心に誓った。

 その住職も歩くことに理解があった。秋川流域には宗派を問わず七十五の寺がありこれを歩いて廻ろうという計画のあることを話してくれた。

 四国霊場の巡路は自動車道にとって変わったものもあるが、道の分岐点などに古い道標が残っており、疲れた遍路を元気付けてくれる。「平成の道しるべ」を立てる運動や、有志によるへんろ道の草刈りなども行われている。山道では「マムシ注意」の看板があったりして、よく整備されている。多摩では大きな街道筋を歩くことになったが、各寺が協力すれば素晴らしい巡路が設定できるに違いない。

 四国では上記のハード面の整備の一方で、遍路の通り道筋にお住まいの人達の暖かい心遣いも忘れてはならない。香川県のAさんから今年も賀状を頂いた。「鈴の音に呼びいだされて結ぶ縁」の句につづいて、漢字の得意なアメリカ人コンピュータ技師や日系ブラジル人との出会いなどが記され、最後に平成十二年中は三百二十二人のご縁を頂いたとあった。(Aさんは通り過ぎた私の後を追って来られ、自分は少飛六期生、戦闘機乗りの生き残りですと自己紹介され、番外札所の新聞切り抜きと缶コーヒーを頂いた。)

 この日は路上に、小鳥(鴬色をした椋鳥ぐらいの大きさの鳥)の亡骸が落ちていた。般若心経をとなえ、林の中に移してやった。修行の道場から菩提の道場に入った。

 

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                             二十六

第十日 祈ることと煩悩

 五十二番花蔵院(青梅市)の住職は女性である。

 このたびの遍路では二つの願い事をして廻っています。一つは今度生ま

れてくる孫が五体満足な元気な子でありますように、もう一つは独身寮時代に仲良くしていた友達が脳梗塞で倒れた。彼の症状が少しでも快方に向かうように祈っていますと。

 すると尼さんは余り熱心にお願いしないほうがいいですよ。あまり熱心にお願いすると順番が後回しになるかもしれませんよ。願いが強ければ強いほどそれは欲望であり、煩悩です。お地蔵さんはそれはそれは熱心に救おうとされる。しかしそれは煩悩と紙一重であり、そのため何時までたってもお地蔵さんは如来さんになれないのだそうです。仏様は誰にも公平なのです。今仮に我が子と親が溺れようとしています。あなたはどちらを助けますか。迷っていますね。お釈迦様は先ず近くにいるほうを助けなさいと言っています。それが公平だと教えています。私は護摩を焚く時決して個々の願い事は頭にありません。無心になるよう努めています。女性は男に比べ煩悩が強く戒律も厳しいのです。無心になることこれは大変難しいことです、と。

 三十番真明寺(小金井市)の住職も女性である。花蔵院の住職さんに余り熱心に祈ることは煩悩だと言われ、祈り方に迷いが出て困っているのですと打ち明けてみた。魅力ある笑顔で、「そうね私も祈る時は無心になることを心がけています。朝は一日の無事を祈り、夕べには無事を感謝し祈ります」という返事だった。

 

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                              二十八

第十一日 車のお接待

 四十九番常福院は高水山山頂にある。高水山は標高七五九米、さしずめ多摩のへんろころがしというところか。平日は麓で納経を受け付けてくれるということだが、丁度日曜日なので山頂で納経を受けたい旨電話で連絡しておいた。

 日曜日の青梅線はさながら登山列車である。軍畑で下車、早速登山のグループに混ざって登山道を行く。約一時間半かけて到着。納経後、住職に今日泊まる予定の岩蔵温泉は一人客は泊めてくれない、その先の宿場町まで歩く自信はなく、思案している旨相談すると、これから青梅まで行くので次の四十五番安楽寺まで車で送ってあげようと言われ、好意をありがたく受けることとした。

 車社会の昨今、四国でもたびたび車のお接待を受けた。その中で宇和島市を四十一番龍光寺へ向かう途中、ぜひ車に乗ってほしいと言われ、運転助手席で聞いた話を紹介したい。

 私はかって健康を害し、入院の段取りを決めて自宅に帰る途中、一人の遍路を乗せたことがあります。乗せた途端に後悔しました。乞食遍路というか、とにかく悪臭ぷんぷん。しかしその翌日から食欲が出、とうとう入院しなくて済み、以前にも増して健康になりました。今にして思えばあの乞食遍路は私にとって弘法大師だったのです。それ以来私は歩いている遍路に出会うと必ず乗ってもらうことにしています、と。時代が変わり、車社会になってからも大師信仰はこんな形で今に受け継がれているのである。

 しかしいい話ばかりではない。ある女性は車で廻っている遍路のお接待を受けているうちに、さあ今日はどこに泊まろうかと話しかけられ、はたと気がつき、友達が待っているからと、ほうほうの態で逃げ出した話をしてくれた。お試しだったんですねと。

 私は坂出市を歩いていた時、「昼飯を食っていけ、白峰寺まで車で送るから、久しぶりにお遍路の話しをしようじゃないか」と呼びとめられた。食事の間、彼は日本酒を飲みながら、五年経っても子供に恵まれず、子供がほしくて三回廻ったこと。翌年、男の児が生まれたが、その妻とは離婚したことなど身の上話を始めた。車に乗ってからも自動販売機で買い足し、飲みながらの酔払い運転、まさに命をかけての修行であった。

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                             三十                                                    第十二日 一期一会

 立川市のビジネスホテルを出発、青梅の山では蕾であった桜も、ここ国立では満開である。きれいな駅前の桜並木を眺めながら、モスバーガーで朝食を採る。思えば今回の行程もあと二日を残すのみ、涅槃の道場に差し掛かった。

 いろいろの一期一会があった。「托鉢ですか」と言って路上で百円くれた人もあった。写真を撮って送って頂いた方もいる。

 七十五才から始めて、四国霊場、続いて西国、坂東、秩父の百観音を満願したという八十六才の女性は、今は九十三才になる夫の面倒をみるためにのみ生きていますとしながらも、満願の喜びを語る顔が忘れられない。

 いろいろの寺があった。廃寺寸前の寺のある反面、経済的に裕福そうな寺もあった。真言宗の宗派の数も年々多くなる。これは仏の教えの違いから来るものではなく、財政が豊かなところは上納金の納入を拒み、一派を唱える。宗教の自由は信仰する側の自由のみならず、信仰される側にあっても独立する自由でもあるのだと、はじめて聞く話もあった。

 四国には予定があってなきが如き漂泊の旅を許す懐の深さがある。遍路の傍ら農作業を手伝い、滞在している人も多い。昔は捨て遍路と言って「この者に何事があろうとも郷里に連絡するに及ばず」との一文を縫い付け、故郷から捨てられ、仏にすがって旅を続けた人達がいた。見晴らしのいい峠など随所で力尽きた遍路の粗末な墓に出会う。歩き遍路が味わう歴史の重さである。

 多摩には弘法大師ゆかりの逸話や寺はない。お接待の習慣もない。多摩霊場巡拝に四国の懐の深さからくる癒しを求めても無理かもしれない。

 しかし、私は多摩には多摩の廻り方があっていいと思っている。私は寺に着くと、まず読売の「多摩へんろ」を取り出し、寺の故事来歴を一読、寺とこれにまつわる人々の必死に生きてきた営みを考えてみることとした。古い昔から人は必死にもがき苦しみ、仏に救いを求め生きてきた。多摩も四国も変わりはない。ようやくそう思えるようになった。

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                              三十二

第十三日 空海の偉大さ

 昨日は三十七番多聞寺(東久留米市)で時計の針は四時を回った。次の寺は翌日にしようと、田無のビジネスホテルに電話をしたが、どこも満室であった。仕方なく自宅まで歩くこととした。立川市から武蔵野市まで、腰の万歩計は四万八千歩を表示していた。自宅泊とはいえ修行の途中である。妻との会話も最小限に、今日は早朝の旅立ちとなった。

 西東京市の札所を廻り、お昼前、市内の二番延命寺に到着、結願、一番安養寺に戻ってその報告、これで一環が完結した。四国霊場順打ちでは、八十八番大窪寺で結願の後、一番へお礼参りし、更に和歌山の高野山詣りする人が多い。

 今回の遍路を終え、あらためて思うのは弘法大師=空海の並はずれたスケールの大きさである。彼は自己中心の生きかたを厳しく戒めた。その為には人を殺すことも辞さなかった(後述の衛門三郎の話しご参照)。反面、一一〇〇年経った今でも多くの人を救っている。その偉大さを改めて思う。その遍路の起源とも言われている衛門三郎の話しを紹介し、旅を締めくくろう。

 伊予の強欲の長者、衛門三郎は物乞いの乞食僧を追い返し、八日目にはその鉄鉢を奪って投げ捨てた。鉄鉢は八つに割れて飛び散り、その翌日から八人の子は次々に死んでいった。三郎は深く反省し、乞食僧こそ弘法大師に違いないと、ざんげの気持ちで後を追った。二十回巡っても会えず、二十一回目老いと病で倒れた。そのとき大師が現れ「罪業は消滅した。なにか望みはないか」と尋ねた。「それなら私は伊予河野一族なので、その世継ぎに生まれたい」と言った。大師は小石に「衛門三郎再来」と書いて左手に握らせた。まもなく三郎は安らかに往生した。八三一年十月三十日のことであった。

 道後湯築城主河野息利の妻が男児を産んだ。ところが三年たっても左手が開かない。安養寺の住職が祈とうしたところ、やっと手を開き、その手から「衛門三郎再来」と書かれた小石が転げ落ちた。(小石は今も寺宝としてある)

 安養寺はその後石手寺と改められ現在五十一番札所(松山市)となっている。また、三郎臨終の地は十二番焼山寺(徳島県名西郡)から一、五キロの所に、大師の杖が根付いたとされる杉の大木が聳えている(杖杉庵は今はない)。(注)
(注)読者から現存するというご指摘を頂いた 再建されたらしい(6/6追記)

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                              三十四

     あ と が き

 先ず、道中見守っていただいたお大師さんをはじめ、お世話になった方々にお礼を申し上げたい。まだ三百キロ歩く体力が残っていることを確認できたし、毎日ただひたすら歩き、快食、快眠、快便の生活、期間中のアルコール断ちは肝臓に長期休暇を与えることとなった筈である。これが功徳でなくてなんであろう。

 終始四国遍路の追憶に浸りながら歩いてきた。四国と多摩では弘法大師との所縁や遍路を受け入れる土壌に歴然たる差があることは、出発以前から分かっていた。しかし同行二人の視点からは、どこを歩こうと変わりがないという認識が正しかったことを再確認できた。

 多摩霊場は創設されてから六十七年の歳月が過ぎた。羊頭狗肉とか、仏造って魂入れず、と言う人もいる。これは言葉が過ぎ、お大師さんにこれほど失礼なことはない。四国の写しだとて、何ら卑下することはない。大師の教えを受け継ぎ、広め、ますます発展させてほしいものだ。今や遅しと、「平成の弘法大師」の出現を待ち望んでいるように思われた。

 今回の総費用は約十四万円。一日当たり一万円を少しでた。遍路用具はすでにあるものを使った。費用の約半分は宿泊費、残りは食費と納経料である。

 たかが一回四国を廻ったからといって、いっぱしの遍路つうのような顔をしてと、顰蹙を買うかもしれない。お許しを頂きたい。最後まで読んで頂き、厚くお礼申し上げる。

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多摩八十八ケ所一覧

第  一番 安養寺 (武蔵野市)

第  二番 延命寺 (武蔵野市)

第  三番 井口院 (三鷹市)

第  四番 長久寺 (三鷹市)

第  五番 大正寺 (調布市)

第  六番 常性寺 (調布市)

第  七番 威光寺 (稲城市)

第  八番 高勝寺 (稲城市)

第  九番 宝蔵院 (稲城市)

第  十番 高蔵寺 (町田市)

第 十一番 慶性寺 (町田市)

第 十二番 千手院 (町田市)

第 十三番 東福寺 (多摩市)

第 十四番 吉祥院 (多摩市)

第 十五番 高蔵院 (多摩市)

第 十六番 観音寺 (多摩市)

第 十七番 真照寺 (日野市)

第 十八番 法音寺 (府中市)

第 十九番 最照寺 (八王子市)

第 二十番 正光院 (府中市)

第二十一番 光明院 (府中市)

第二十二番 普門寺 (府中市)

第二十三番 妙光院 (府中市)

第二十四番 西蔵院 (府中市)

第二十五番 宝性院 (府中市)

第二十六番 正楽院 (立川市)

第二十七番 観音寺 (国分寺市)

第二十八番 東福寺 (国分寺市)

第二十九番 国分寺 (国分寺市)

第 三十番 真明寺 (小金井市)

第三十一番 金蔵院 (小金井市)

第三十二番 宝寿院 (小平市)

第三十三番 総持寺 (西東京市)

第三十四番 宝樹院 (西東京市)

第三十五番 如意輪寺(西東京市)

第三十六番 寶晃院 (西東京市)

第三十七番 多聞寺 (東久留米市)

第三十八番 園乗院 (東大和市)

第三十九番 三光院 (東大和市)

第 四十番 蓮華寺 (東大和市)

第四十一番 慶性院 (東大和市)

第四十二番 真福寺 (武蔵村山市)

第四十三番 薬王寺 (青梅市)

第四十四番 真浄寺 (青梅市)

第四十五番 安楽寺 (青梅市)

第四十六番 梅岩寺 (青梅市)

第四十七番 金剛寺 (青梅市)

第四十八番 東光寺 (青梅市)

第四十九番 常福院 (青梅市)

第 五十番 宝蔵寺 (檜原村)

第五十一番 即清寺 (青梅市)

第五十二番 花蔵院 (青梅市)

第五十三番 西福寺 (日の出町)

第五十四番 光明寺 (日の出町)

第五十五番 西光寺 (日の出町)

第五十六番 常福寺 (日の出町)

第五十七番 大行寺 (あきる野市)

第五十八番 真照寺 (あきる野市)

第五十九番 大悲願寺(あきる野市)

第 六十番 大光寺 (あきる野市)

第六十一番 正福寺 (八王子市)

第六十二番 大仙寺 (八王子市)

第六十三番 安養寺 (八王子市)

第六十四番 西蓮寺 (八王子市)

第六十五番 宝生寺 (八王子市)

第六十六番 浄福寺 (八王子市)

第六十七番 吉祥院 (八王子市)

第六十八番 薬王院 (八王子市)

第六十九番 金南寺 (八王子市)

第 七十番 大光寺 (八王子市)

第七十一番 真覚寺 (八王子市)

第七十二番 萬福寺 (八王子市)

第七十三番 金剛院 (八王子市)

第七十四番 観音寺 (八王子市)

第七十五番 妙薬寺 (八王子市)

第七十六番 大義寺 (八王子市)

第七十七番 福傳寺 (八王子市)

第七十八番 長福寺 (八王子市)

第七十九番 龍光寺 (八王子市)

第 八十番 阿弥陀寺(昭島市)

第八十一番 西蓮寺 (八王子市)

第八十二番 天龍寺 (八王子市)

第八十三番 延命寺 (日野市)

第八十四番 普門寺 (日野市)

第八十五番 安養寺 (日野市)

第八十六番 石田寺 (日野市)

第八十七番 寿徳寺 (日野市)

第八十八番 金剛寺 (日野市)      目次へ戻る