10番目の幻の軍神」戦後の記


昭和1612/8の特殊潜航艇のハワイ突撃に際して軍神とされたのは9人。2人乗りの潜航艇5隻が出撃しているのだから、1人足りないというのは当時の国民誰しもがわかっていながらあえて口に出さない事だったという。その10人目は酒巻和男海軍少尉。アメリカ軍に捕まり、捕虜第一号となった人である。酒巻は海軍兵学校、霞ヶ浦航空隊、練習船阿武隈候補生を経て少尉となり、特殊潜航艇乗組員に選抜された。沖縄の中城湾や愛知の三机湾で訓練を行っていたが、突然、1週間の休暇を貰い、それで自分の任務の重大さを知ったという。しかし出撃に際して羅針盤が故障、艦長と相談して盲目航行で酒巻艇は突入を試みるが、2つしかない大事な魚雷を発射するに値する目標を見つけられず、電池からガスが漏れたりしたため、ラナイ島へ待避を目論見る。そこで同乗の稲垣二曹と2人で艦を捨て、ラナイ島へ泳いでいこうとしたのだが、稲垣二曹とはぐれ、酒巻だけ島にたどりついた。しかしそこはラナイ島ではなくオアフ島で米軍に捕まってしまう。酒巻は「キルミー」と連呼したが、衰弱した体では米兵のなすがままにされるしかなかった。日本国内では酒巻が捕虜となった事は伏せられた。海軍内部でも極秘扱いで、ほとんどの幹部もその存在を知らなかったという。昭和20年暮れになって、酒巻の存在が公表されたが、日本国内の反応は冷たかった。軍関係者のみならず、民間人でも多数の犠牲者を出していた中、開戦当初に捕虜となり生還というのは多くの国民に割り切れない不公平な思いを抱かせたのである。酒巻は徳島の阿波郡林町馬場の郷里に復員、昭和21年8/15に広島の女性と結婚、捕虜生活について同年に脱稿、9月には本にする予定で話が進んだ。これは新潮社から「捕虜第一号」として発刊され、大変な話題を呼んだ。反響は海も渡り、昭和2412/7、ニューヨークのアソシエーションプレスから「捕虜第一号」の英訳「私は真珠湾を攻撃したか」が発売されている。酒巻の稀有な体験に同情した名古屋の女性の紹介で、酒巻は昭和22年3月にトヨタに就職、入社後はバトミントン部を創設し、6年で実業団優勝するほどの強豪に育てた。仕事の方では昭和30年、輸出課長となり、昭和44年、ブラジルトヨタ社長となった。その間、昭和32年3/26には、追浜基地で捕虜時代の恩人のロイ・ブキャナン大尉と酒巻は再会するなどしている。ブキャナンは大戦中は曹長で食堂係で、酒巻のハンストを説得して止めさせるなど、捕虜時代の酒巻の信頼を勝ち得ていた。また酒巻は昭和3412/8、フジテレビのドキュメンタリー「事実のドラマこれが真実だ」に出演している。しかし自身の経験について余り語るのを好まなかったという酒巻は、その後は沈黙を守り、平成11112981歳で死去した。特殊潜航艇の9軍神も、もし永らえていれば、酒巻の戦後のような豊かな人生が待っていたかもしれない。酒巻が自身の経験を語るのを嫌がったのは酒巻にとっては当然の心情であったろうと思うのである