大団円を目指して


第19話 「狂愛」



 夜の帳が下りて久しく、天には月が輝く時間。
 イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは、独り夜道を歩いていた。
 肩を落として歩く彼女の様子は見るからに力が無く、その姿はまるで親を求めてさ迷い歩く幼子のようだった。
 しかし、それも無理はないだろう。
 彼女はつい先程、信頼出来る仲間達と別れたところなのだから。

 字の如く、信じて頼れる仲間達であった。
 既に始まっている聖杯戦争という名の殺し合いでも安心して背中を任せられる、信頼という言葉ではとても言い足りない、本当の仲間達であった。
 それでも、別れる必要があった。
 どんなに居心地が良くとも、離れる必要があった。
 行きたい場所があったから。
 譲れないモノがあったから。
 しかし、そうまでして求めたモノへ向かうにしては、彼女の足取りは酷く頼りない。
 少し歩いては立ち止まり、踵を返してはまた足が止まるといった繰り返しである。

「……ハァ」
 
 彼女は、知らずに溜め息を吐いた。
 求めるモノを手に入れた時、必ずや己の敵となるであろう者の顔を思い浮かべたからである。

「間違いなく、怒るわよねえ……サクラは」

 それが、イリヤの足取りの鈍い原因であった。
 敵という表現は穏やかでないが、それを大袈裟なものだとは思わない。
 自分一人が言わば抜け駆けをした場合、それを知った時の彼女の反応が火を見るよりも明らかだからだ。
 本来ならば、それがどうしたと言い切れるイリヤだったが、昨夜凛から聞いた話でそうもいかなくなった。
 凜の家の地下室で探し物をしていた時に聞いた、とある話。
 それは、過去にやらかしたという、凛と桜の姉妹喧嘩の話である。
 探し物をしながらの暇潰しの話題としては、かなりヘヴィな内容だった。
 イリヤをもってしても、その足を躊躇わせる程に。
 気付けばその時に聞いた話の内容を、イリヤは思い返していた。





「あらためて言うけど、久しぶりね桜。元気そうじゃない」
「はい、おかげさまで。姉さんも、お元気そうで何よりです」

 わたしこと遠坂凛は、既に恒例となって久しい年に一度の帰郷を果たしていた。
 季節は、春。
 桜の花咲く、世間一般では春休みの時期である。
 穂群原学園を卒業し日本を立って、はや七年。
 士郎と桜が結婚して、もう五年。
 わたしも、いまや二十五歳。
 時が過ぎるのは、早いものである。

「ところで姉さん。折り入った話って何ですか?」
「あ、うん……」

 わたしは今、既に桜の家である衛宮家の居間で、桜からお茶のもてなしを受けている。
 テーブルの向い側には桜が座っており、先程あらためて挨拶をした訳だが……
 さあて、何と切り出そうものやら。
 実に話し辛い。

「えっとね……あ、士郎は?」
「はい、姉さんも知っての通り今の時間は仕事ですけど。だから、この時間に会う約束をしたんじゃないんですか?」

 その通りである。
 これから話す内容は、とても士郎には聞かせられない。
 少なくとも桜に話を通してからでなくては、絶対に聞かせられない。
 だからこそ昨日の内に、士郎がいないこの時間の桜のアポを取ったのだ。
 まあ、今朝士郎と電話で話した時にも、それは確認したんだけどね。

「ああ、そうよね。そうそう、そうだった。ハハ……」
「……大切な話、みたいですね」
「まあ、ね」

 そりゃそうよ。
 女としても魔術師としても、正直これ以上大事な話はそうそう無いってくらいなんだから。

「それで、先輩……じゃなかった。士郎さんやライダーを交えず二人きりって、何度も念押しをされたんですか?」
「何よ、まだ士郎の事を先輩って呼んだりしてるの?」
「いえ、最近はそうでもないんですけど、今のはつい」
「まあ、良いけどね……とにかく、大事な話な訳よ」
「今更士郎さんに隠す事なんて、何も無いと思いますけど」
「そういう訳にもいかないの」
「そうなんですか?」
「そうよ。ほら、身内っていうか、女同士でしか話せない事ってあるじゃない?」
「まあ、そうですね」
「そうよ!」
「そうですか……分かりました。では、身内の女同士(・・・・・・)の話という事で」
「そういう事。悪いわね、桜」
「いえ、全然。主婦って結構ヒマですから」
「そうなの?」
「はい。家事は士郎さんが手伝ってくれますし、この家は士郎さんとわたしとライダーの三人だけですしね」
「藤村先生は、あまり来ないの?」
「はい。お義姉さんは……その……子供が出来るまでは、遠慮するって」
「あ……」

 士郎と桜には、未だ子供がいなかった。

「それより、姉さんは結婚の予定なんて無いんですか?」
「い、いきなりねえ」
「良いじゃないですか、女同士なんですから」
「まあ……今回の話は、それにちなんだ事なんだけどね」
「え……じゃ、じゃあ、姉さん! もしかして……!!」
「違うわよ! まだ相手はいないわ!!」
「……え〜?」

 勢い良く身を乗り出した桜は、わたしの答えを聞くと、いかにも不満そうにぶ〜たれた。

「……何よ、その反応は」
「だって姉さん……もういい年じゃないですか」
「まだ二十五よ!!!」

 冗談じゃない!
 二十五の身空で「いい年」なんて、言われてたまるもんですかってェのよ!!

「でも……」
「他人は他人よ!」

 桜の言葉を、ピシャリとわたしは遮った。
 桜が言いたい事は、聞かずとも分かる。
 ちまたで言われる二十五、即ちクリスマス。
 要するに、次の誕生日を迎えれば、わたしは立派な売れ残りと言いたいのだ。
 12月25日を過ぎたクリスマスケーキのように。
 全く冗談じゃ無いわよ。
 そもそも今の時代に何言ってんだか。
 第一このわたしを世間一般の尺度に当て嵌めて欲しくないわね。
 わたしを誰だと思ってんのよ。
 わたしは魔術師なのよ。
 しかも一流よ。
 伊達に”七月のポピンズ”と呼ばれちゃいないのよ!

 ……いけない、ちょっと動揺しているかもしれない。

 大丈夫。
 わたしはまだまだ十分に、いや十二分に若い。
 スタイルだってバッチ来いだし、桜にだって(一部分以外は)負けていないし、実力の割には若すぎると言っても良いのだ。
 だから、世間体なんて関係ないモンねッ!

 ……自分でも意外だが、実は結構気にしていたのだろうか。

 じゃ無くて!
 自省など後で良い。
 せっかく桜から、結婚の話を振ってくれたのだ。
 ここは一気呵成に攻め込まねば。
 話したい事は正にそれであり、またその先の事なのだから。

「オホン……まあ、そうも言ってられなくなったんだけどね」
「そうなんですか?」
「そうなのよ。ホラ、自分で言うのもなんだけど、わたしって美人じゃない? 才色兼備というか、容姿端麗というか、引く手数多というか、まあ単なる事実だけど、ぶっちゃけ最近うざったいのよ 」
「はあ、色々な意味でさすがというか何というか」
「もっとも、あの大師父に目を掛けられていると思われているってのが大きいんでしょうけどね」
「大師父って、姉さんを助けてくれたっていう、魔法使いのお爺さんの事ですか?」
「お、お爺さんって、アンタね………」

 この世界に四人、ないしは五人しかいないと言われる魔法使い且つ、遠坂家初代の師でもあるあの大師父を、事もあろうにお爺さん呼ばわりとは。
 ボケてるというか、大物というか………
 って、いけない、いけない。
 思わず呆れてしまったが、話が逸れている事にわたしは気付く。
 大事な話だってのに、こんなんじゃ駄目だ。しっかりしないと。
 そう。これからわたしが桜に話す事は、先にも言ったが本気でこれ以上は無いってくらいの大事な話である。
 何しろ、これはわたしだけの問題では無い。
 遠坂家六代にまつわる話なのだから。

「まあ、結婚の事は別に良いのよ。まだ焦る年じゃ
全然ないし、相手に不自由してないし、その気になればすぐにも出来るし」
「(その気になるのが難しいんじゃないですか)」
「何か言った?」
「いえ、別に」

 シレッと、かわす桜。
 さすがは主婦ね。
 ともあれ、話はここからが本題である。気を引き締めねば。
 とはいうものの、どう言えば桜に解って貰えるのだろう。
 これ以上話を引き伸ばすのは意味が無いし、かと言ってズバリと言うのも、はなはだマズイし、さて……

「……でね。結婚は良いのよ、別に。いや、ホントに。
 でもね、魔術師であり魔術師足らん者としては、これだけはって問題があるでしょ?」
「ハァ」

 正直この辺りで察して欲しかったのだが、どうも桜は解っていないようだ。
 遠回しに言い過ぎただろうか。
 まあ、桜は魔術師じゃないしね。
 って事は、直球で言うしかないのか。
 うう、やだなあ……

「でね、その……オホン。結婚はともかく……」

 ええい、もう言うしかない!
 覚悟はとっくに決めている筈!
 筈っていうのがちと悲しいが、頑張れわたし!
 言ってしまえ!!

「結婚はともかく――――子供は欲しいのよ」

 世の全ての魔術師は、常に高みを目指している。
 目指す高みは人それぞれだが、例外は無い。
 どんなに腐った魔術師でも、少なくとも魔術師としての高みは常に目指しているのだ。
 そして我が遠坂家の目指す高みは、いうまでもないが”根源の渦”である。
 あらゆる出来事の発端とされる座標。
 万物の始まりにして終焉、この世の全てを記録し、この世の全てを作れるという神さまの座。
 その座を、代々の遠坂家当主は目指し続けてきた。
 そして、その為の手段が第二魔法である。

 宝石剣は、私の代で手が届く。
 しかし、そこから先は正に未知数。
 第二魔法の能力を持つという宝石剣だが、例えそれを手にしたとしても第二魔法には届かない。
 またいつかは届くものと仮定しても、根源への扉がそびえ立つ。
 第二魔法を手に入れようと、それで終わりな訳では決してないのだ。
 おそらくわたしの代では、目指す場所には届かない。
 ならば、どうするか。
 決まっている。
 自分の代で到達出来ねば次代に託すのが、魔術師という存在なのだから。

「――――とまあ、そんな訳なのよ。あ、誤解しないでね。わたしはあくまで魔術師として……」
「姉さんは子供が欲しいんですか?」
「……」

 なんか、桜の目がすんごく怖いんだけど。

「いや、だから誤解しないで、桜。わたしは別に……」
「誰の子供が欲しいんですか?」

 ……いや、もう、その笑顔が本気で怖いんですけど。
 思わずごくりと、わたしは唾を飲み込んだ。
 その音が、やけに耳に響いた。
 だが、しかし。
 この程度の反応、重々承知の上。
 ここからが、本当の勝負である。

「士郎の子供に決まってるじゃない」

 シレッと、わたしは言いのけた。
 開き直るのはわたしの悪い癖だが、ここで弱気になっては激しくマズイ。
 今更、後には引けないのだから。
 つまりは、ここで一気に畳み掛けねばッ!

「桜が心配しているのは、わたしがまだ(・・)士郎を好きなんじゃないかって事でしょ?」
「……」
「安心なさい桜。そんな事は全然無いから。正直わたしが欲しいのは、士郎の魔術回路なのよ」
「……魔術回路、ですか?」

 よっしゃあ、喰い付いたあッ!!

「そう、魔術回路。桜には解らないだろうけど、士郎って魔術師としては初代なの。しかもこの時代に。これって本来あり得ない事なのよ!
 解る? 士郎は自力で魔術回路を開いたの。毎晩死ぬ思いをしながら。それも27本も。しかも自分一代で。更には神経と一体化している。こんな事、本気であり得ないのよ!
 はっきり言って惜しいの、士郎の魔術回路は。しかも人の身でありながら、固有結界すら開ける魔術師の魔術回路なんだから、魔術師としては絶対に見逃せないの!
 わたしは今代の遠坂家当主として、次代に引き継ぐべき者として、どうしても士郎の魔術回路が欲しいのよ! だから……!!」

 ……駄目だ。
 ここまで一気に言いのけたが、このままでは駄目な事にわたしは気付いた。
 マズイ。
 これでは、話がここで終わってしまう。
 終わってしまえば、この話を蒸し返す事は二度と出来ない。
 出来る訳がない。
 ならば使うしかない、鬼札を。

「だから、その……それに、こんな事は言いたくないんだけど」

 本当に、こんな事は言いたくなかった。
 桜が傷付くから。
 でも、言うしかなかった。
 これを言わねば理由にならず、桜が納得する筈もないから。
 だから、わたしは敢えて言う。
 桜の心を(えぐ)る事を。
 だってわたしは、魔術師だから。
 自分のエゴを通すのが、魔術師だから。

「わたしが子供を二人産んだら、その内一人は桜達の”養子”に出すわ」
「……」
「ごめん。ホントにこんな事、言いたくなかったんだけど……」
「そうですね」

 桜が無表情のままに言った。





「わたしは子供を産めませんから」





 桜は、子供が産めなかった。
 どんなに子供が欲しくとも、その為には養子を取るしかなく、自分の血を分けた子供は産めなかった。
 何故なら、桜には子宮が無いから。

 あの間桐家の地下室で、桜の子宮はとうの昔に食い破られていた。
 あの忌まわしい蟲どもに。
 あの蟲蔵に蠢いていた淫虫は、人間の血液、精液、骨髄を好む魔物どもだ。
 加えて淫虫の本能か、虫どもは女の子宮が好物らしい。
 女の肉は食いたがらないくせに、胎の臓器だけは欲しがるのだ。
 理性の果て、脳の神経を焼ききる程のオルガズムを与えながら、同時に体内に侵入し、子宮を胎盤を食い尽くす。
 人の肉を好まない淫虫が子宮に至る方法は一つだけであり、結果この虫どもに集られた……
 いや、そんな事はどうでも良い。

 とにかく、桜は子供を産めないのだ。

「……酷い事を言ってる自覚はあるわ。姉としても女としても、わたしは最低な事を言っている。
 それでも、わたしは魔術師なの。結婚も子供も、次代の遠坂家の為のものでしかないわ。
 女の幸せなんて、もうわたしは求めない。解って欲しいとも、言わない。
 それでも、わたしには必要なの!
 士郎との子供が、わたしには必要なのよ!! だから……!」
「もう良いです」

 桜は、わたしの目を真っ直ぐに見たまま静かに言った。
 わたしの決死の想いを乗せた言葉は、端的に無惨に遮られる。
 嗚呼、すっかり桜は人の目を見て話せるようになったんだなあと、場違いな事をふと思った。

「わかりましたから」

 届かなかった、かあ……
 残念だわ、桜。
 本当に、残念。
 出来る事なら桜の許しを得たかったんだけど、駄目なものは駄目だ。どうしようもない。
 無論、諦めた訳ではない。
 こうなったからには当初の予定通り、士郎に暗示を掛けて……
って、嘘ッ!!?


「解ってくれたの、桜!?」
「解ったって訳じゃありませんけど……」

 桜は、言い難そうに言った。

「先輩、本当は子供が欲しいんです」
「……」
「先輩、子供が好きですから」
「……」
「先輩は何も言いませんけど、わたしには解るんです」
「桜……」
「姉さん……本当に、子供を一人譲ってくれるんですか?」

 その桜の言葉にわたしは息を呑み、次の瞬間はじけるように言った。

「勿論よ、勿論! 一人と言わず何人だって譲っちゃうわ!!」

 今のわたしの顔は、きっと輝かんばかりの笑顔に違いない。
 良かった。
 本当に良かった。
 士郎との子供は絶対に欲しいけど、別に桜の幸せを壊したい訳じゃないものね。
 今更だけど。
 そもそも暗示を使った性交などでは、士郎の優しさは感じられない。
 一応……初めてだしね。

「それで、姉さん」
「何々? 何でも言って?」

 わたしは、滅茶苦茶に浮かれていた。
 有頂天と言って良い。
 しかし次の桜の言葉で、わたしは絶頂の気分からどん底に突き落とされる。

「先輩の”精液”は、どれくらい必要なんですか?」
「――――ハ?」

 桜が何を言っているのか、わたしには良く分からなかった。

「ですから、先輩の精液はどれくらい必要なのかなって……」
「ちょ、ちょっと待って桜! その……精液って、何よ?」
「だって”代理出産”には精子が必要じゃないですか。よく分かりませんけど」

 ……ダイリシュッサン?

「子供が欲しいだけなら、先輩に抱かれる必要はこれっぽっちも無いですよね。わたしも子供は欲しいですから、姉さんに甘えちゃいます。姉さんが先輩に抱かれるのは絶対に許せませんけど、今は子供を作るだけなら、そんな必要無いですもんね。じゃあ、先輩にはわたしから話をしておきますから。ところで費用ってどれくらい掛かるんですかね。あ、もしかしてそれも姉さんが出してくれたり……」
「ちょ、ちょっと待って! 待ちなさい!!」

 わたしは慌てて桜の言葉を遮る。

「何よ、その代理出産ってのは! そんな事で子供を作るつもりなんか全然無いわよ、わたしはッ!」
「だって、魔術師として子供が欲しいんですよね、姉さんは。だったら良いじゃないですか、それで」
「冗談じゃないわよ! 子供を生むってのは、もっとこう……!!」
「それともやっぱり姉さんは、先輩に抱かれたいんですか?」
「……」

 わたしは何も言えなくなった。

「ところで、姉さん」
「……何よ?」
「姉さんって、まだ処女なんですか?」

 わたしは激しく咳き込んだ。

「な、何をいきなり……」
「捨てるモノじゃありませんけど、二十五にもなってそれじゃあ、ちょっと問題あるんじゃないですか?」
「……」
「未練たらしいというか、何というか。まあ、大事にするのは結構ですけど――――」

 そして桜はくすくすと笑いながら、

「――――どうせ、先輩に捧げる事は出来ませんよ?」

 そんな事をのたまいやがった。

「……それは、わたしに喧嘩を売っているのよね?」

 魔術回路のスイッチを入れながら、わたしは確認するまでもない事を桜に問うた。
 正直なところ、やはりこうなったかという思いが、わたしにはある。
 桜が、士郎に関する事でわたしに譲る事など、何一つありはしないのだ。
 大体桜は士郎を縛り過ぎだ。
 しかも依存がはなはだしい。
 愚痴をこぼす士郎ではないが、わたしには解るのだ。
 それに……そう!
 それに、そんなやり方で子供を作っては、生まれてくる子の魔術回路に手を加えられないではないか!
 それでは、何の意味も無い。
 故に、桜の意見は大却下である。

 無論、倫理的にはわたしが間違っている。
 姉としても女としても、問答無用でわたしが間違っている。
 だが、それがどうしたと言うのだろう。
 わたしは、魔術師。
 倫理に縛られる魔術師など、この世の何処にも存在しない。
 次代の遠坂家の為にも、わたしには士郎との子供が絶対に必要なのだ。

 そんな訳で、次のプランに移行である。
 二人っきりと念押しはしたが、どうせライダーは隠れて話を聞いているに違いない。
 桜は先程”身内の女同士”と言った。
 ライダーは身内で女だから嘘は吐いてないとか何とか言うつもりなのだろう。

 上等。

 例えライダーがいようと、わたしは決して後には引かない。
 魔術師として、自分のエゴを押し通す。
 その為の武器が、ふところに仕込んだ宝石剣のミニチュアだ。
 エセ金ピカに借金してまで作り上げた、試作の一品。
 正直使いたくはなかったのだが、ともあれ教えて上げるわ、桜。
 貴女が、誰に喧嘩を売ったのかをね。

「いいわ。その喧嘩、買って……」
「まさかあ」

 わたしがヤル気満々で言った言葉を、桜はいかにも心外そうに否定した。
 ……あれ?

「わたしが姉さんに勝てる訳ないじゃないですか」
「……」
「八年前のあの時だって姉さんに勝てなかったんですよ? ライダーがいようと、わたしが姉さんに勝てる訳ありません」

 何故か桜は、エヘンと胸を張って答えた。
 ……桜の考えが読めない。

「でもね姉さん。こんなわたしでも、姉さんに勝っている所が一つだけあるんですよ?」

 ぴくり。
 まさか、その突き出した胸とか言うんじゃないでしょうね。
 もしそんな事を言おうものなら、ハッキリ言ってただじゃ済ませないわよ、桜。済ます気も無いけど。

「実はですね」

 内緒話を打ち明けるように。

「わたし、結構我慢強いんです」



 瞬間、世界が赤に染まった。



「ガッ……!」

 こ、これってライダーの宝具……!?

「我慢比べをしましょうか、姉さん。
 ああ、心配しないで下さい。わたしからもちゃんと吸われていますよ。ほら、肌が溶け始めました」

 嘘ッ!? もう肌が溶け出して……!

「マスターだからってズルはしません。それじゃあ姉さんが納得してくれないでしょうから。
 でも、()のライダーの宝具って凄いですよね。()のわたしでも、結構キツイです」

 マズイ、わたしの肌も……クッ、魔力を防御に回さないと……

「ところでさっきも言いましたけど、わたしが姉さんに勝てるとは思えません」

 まさか、いきなり宝具を使って来るなんて……

「正直、ライダーがいても勝てる気がしないんです。ライダーには悪いけど」

 しかも何て威力……八年前とは比べ物に……

「実際、八年前のあの時も勝てませんでしたから」

 今のわたしが、這いつくばって耐える事しか出来ないなんて……桜は平然としてるってのに……それに……

「ですから、姉さんに勝とうなんて思いません。その必要もないですしね」

 ……それに、結界の気配なんて無かった。

「わたしは只、耐えるだけです」

 まさか、この家の結界に紛れていたから気付かなかったっての? このわたしが? そんな筈は……

「耐える事なら、わたしは誰にも負けません」

 そうか、今の桜はあっち側と繋がって……なら、あの時とは全てが違って当然じゃない!

「でも、さすがですよね姉さんは。ライダーがいる事には気付いていたみたいですし」

 ……失敗した。問答無用でぶっぱなしておけば……

「姉さん、わたしを■しますか?」

 …………

「ライダーには姉さんの前に出ないよう言ってありますから簡単ですよ。動ければ、ですが」

 ……本気で、マズイ。

「姉さんの隠し玉が何かは知りませんけど、姉さんに勝てる気は全くしません。ライダーがいてもです」

 失敗した。ライダーを、英霊を……

「ですから、例えわたしが姉さんに■されても、ライダーが姉さんの前に現れる事はありません。決して」

 何より、桜を……

「ライダーが姉さんに倒されたら、この結界が解かれてしまいますからね」

 ――――甘く、見ていた。

「ライダーは渋りましたが、ならばその分、宝具に全力を注ぐよう言ってあります」
「桜……アンタ、狂ってるわ」

 わたしはふところ(・・・・)に手を入れながら桜をなじる。

「あれ、知らないんですか、姉さん」

 だが桜は可笑しそうに笑うだけ。
 笑う口に当てた手の肌がズルリと溶け落ちるが、お構いなしに笑うだけ。
 そしてコロコロと笑いながら言った。

「女は愛する人の為なら、簡単に狂えるんですよ」

 ……アンタだけよ、ここまでする女は。

「ところで姉さん、そろそろ降参してくれませんか?」
「……」
「でないと、本当に死んじゃいますよ。わたしも人の事は言えませんけど、肌、凄い事になってますし」
「……」
「先輩には手を出さないと、魔術師として誓ってくれれば良いだけです」
「……」
「あ、念の為、今は亡きお父さまにも誓って下さいね」
「こ、このッ……!」
「それとも、そんなに先輩に抱かれたいんですか?」
「……」
「でも駄目です。それだけは絶対に駄目。絶対に……」
「良いの?」
「……何がですか?」
「もしも」
「はい、もしも」
「もしも、わたし達がここで相打ちにでもなったりしたら、ライダーが一人、漁夫の利を得るんじゃない?」
「ああ、そんな事を心配しているんですか。可愛いですね、姉さんは」

 意外な反応だった。
 桜なら、絶対にライダーにも嫉妬すると思ったのに。

「そんな心配ありません」
「……へえ? ライダーの事、そんなに信用してるんだ。まあ、そりゃそうよね。わたしよりは信じ……」
「もしもわたしがここで死んだら、姉さんを殺してから貴女も死んでね、ライダー」

 桜の令呪が発動した。

「……桜。アンタは、本気で狂ってる」
「だから、さっきからそう言っているじゃないですか。まあ、そうさせたのは姉さんですけど」

 それに、と。
 桜は自分にとってはごく当たり前なのだろう事を、ごく当たり前のように言った。

「先輩に捨てられるよりは、全然マシです」
「……何でそうなるのよ」
「何でそうならないんですか?」

 きょとんと問い返す桜に、わたしは絶句した。
 会話になっているようでなっていなかった。
 狂人に言葉は通じない。

「それより姉さん、そろそろ決めて下さい。決めるのは姉さんです」

 にこりと笑いながら、桜は最後通牒をわたしに突き付けた。
 ふところに仕込んだ宝石剣のミニチュアが、やけに空しい。
 わたしの魔力はとうの昔に空になっており、これで平行世界から魔力を引っ張り込んでいなければ、わたしはとっくに溶け死んでいただろう。
 完全に、ミスッた。
 まさかこんな手で来るとは考えていなかったし、ライダーの宝具がここまでのものだなんて思ってもいなかった。
 門の向こう側と繋がっている、桜。
 その桜がマスターである今のライダーの宝具は冗談抜きでシャレにならず、何より桜がここまでイカレてたなんて……
 もう、本気でいっぱいいっぱいだ。
 間に合うか……

「サクラ、大変です!」

 その時、血相を変えたライダーが慌てた様子で居間に入って来た。

「ライダー!? ここには来ないでって言っておいたじゃ……!」
「士郎が帰って来ました!」
「……え?」
「ですから、士郎が……!」
「嘘ッ!!?」

 驚愕の表情となる、桜。

「本当です! 既に玄関前にいて、この結界にも気付いています!」
「な、何で先輩が……まだこの時間は仕事の筈じゃ……」

 動転した桜が、視線をあちこちと彷徨わせる。
 そして、凛が邪悪と言っていい笑みをこぼしている事に気付く。

「まさか、姉さん!!?」
「そう、わたしが呼んだのよ」

 凛は、ふところから携帯電話を取り出した。

「意外でしょう? わたしが携帯を使えるなんて」

 携帯からは、大声でわたしの名を呼ぶ士郎の声が微かに聞こえる。

「そ、そんな……」
「わたしだって、携帯くらいは使えるようになったのよ。正直ギリギリだったけど、まあ話が話だったからね。こうなるだろう事は予想していたの。勝つ自信はあったんだけど、万が一の為の保険って奴ね」

 携帯をぷらぷらとさせながら、わたしは勝者の特権である種明かしを余裕たっぷりに行った。
 ああ、気持ち良い。
 それにしても、まさかこの保険が役立つとはね。
 保険なんて馬鹿にしてたけど、今の内に生命保険とかにも入っておいた方が良いのかしら。
 余裕を取り戻したわたしは、そんなくだらない事を考える。
 そしてわたしは、桜にトドメの言葉を突き刺した。

「桜。アンタが今まで話した事は、全て士郎は聞いていたわ」

 絶望の表情となった桜が、正座をしたまま腰から崩れ落ちるという器用な真似をしてのける。
 その姿を見て、わたしは勝利を確信する。
 桜に出来る事は、もはや無い。
 全ては、これで終わったのだ。

「……そこまでしますか、姉さんは」
「ここまでしたアンタに言われたくないわよ。ライダーもいい加減にこの結界解いてくれない?」
「サクラの命があれば、すぐにも」

 心なしか、ライダーもホッとしているように感じた。
 きっとライダーも、こんな事は間違っていると思っていたのだろう。
 だったら止めろよって言いたいけどね。

「ところで実に今更ですが、大丈夫ですか、リン」
「……何とかね。肌は結構溶けちゃったけど、まあ大丈夫よ。問題ないわ」

 今のわたしなら、魔力さえあれば大抵の事はどうにでもなる。
 当然その魔力は、桜に提供させるのだ。
 士郎とパスを繋げれば、結果桜とも繋がる訳だしね。

 そしてわたしは、士郎経由とはいえ無限の魔力を得る訳だ。フフッ。

 ちなみにわたしは、士郎の番号を登録した携帯の短縮ボタンを押しただけだったりする。
 ぶっちゃけ、桜と交わした会話の内容は、士郎に聞こえていないのだ。
 そもそも、内ポケットに入れてある携帯で会話が聞こえる筈もない。
 わたしは只、今朝の電話で士郎に言っておいただけ。
 わたしからの電話があったら、必ず急いで家に戻れと。
 要するに、ハッタリだ。
 正味の話、他に手が無かったのである。
 無ければ無いで何とかするのが魔術師なのだが、自分でもちょっと情けない手というか、手になっていない手というか……ま、いっか。
 今となっては、全てが笑い話。
 必ずや、桜がわたしに感謝する日が来るだろう事を、わたしは確信している。
 そう、みんなで幸せになるのだ。
 勿論わたしも、ベリーベリーにハッピーとなるのだ。



 わたしの読みでは、ここで桜は諦める筈だった。



 何があろうと士郎は桜を許すと信じていたし、わたしが桜を許せばきっとまた元通りに成れると思っていた。
 事実、八年前のあの時は今の比ではなかったし、実際にそうなった。
 だから、これで全ては元の鞘に収まるとわたしは考えていた。
 しかし、わたしは甘かった。
 その事を、わたしは次の桜の言葉で思い知る。

「……殺して」

 唐突に聞こえた(ひび)割れた声。

「姉さんを、殺して」

 崩れ落ち顔を伏せたままの桜。
 その表情は前髪に隠れ分からない。

「その後で――――」

 まるで生気の感じられない声で。

「――――わたしも殺して」

 そんな事を、桜は言ったのだった。

「桜ッ! アンタまだ……!?」
「何故です、サクラ!? もうそんな必要は……!」
「先輩に捨てられちゃうもの」
「ば、馬鹿言ってんじゃないわよ! 士郎がそんな事する筈……!」
「します。だって先輩、許してくれないもの」
「聞きなさい、桜!! 士郎だったら許す……!」
「無理です。わたしが今でも悪い娘だって、とうとう知られちゃいました。もう駄目です」
「桜! アンタ、全然士郎を解ってないじゃないッ!! 士郎なら絶対……!」
「いいえ」

 わたしから見た今の桜は、幸せの筈だった。
 幼い頃から、虐待という言葉ではとても言い表せない仕打ちを身内から受け続けてきた桜。
 そんな桜にとって、士郎との今の生活はようやく掴んだ幸せである。
 だからこそ、不安は常に付き纏う。
 桜にとって、幸せとは必ず失われるもの。
 そんな筈はないと自分に必死に言い聞かせながらも。
 こんな自分が幸せになって良いのかと。
 士郎にはもっとふさわしい相手がいるのではないかと。
 全ては、桜の自分の自信の無さ故に。

 桜は、常に恐れていたのだ。
 桜は、常に怯えていたのだ。
 士郎に捨てられる事を。

 今の桜は、ようやく得た幸せに必死になってしがみついていただけなのかもしれない。
 その結果が、士郎に依存しきった今の状態である。
 何かあれば捨てられると思い込み、そうなった時にはすぐさま死を選ぶ程に。

「先輩の事は、わたしが一番よく理解(わか)っているんです」

 わたしは、桜を読み違えたのだった。

「ち、違う! そうじゃなくて、士郎なら……!」
「ごめんね、ライダー」
「……いえ、私は何処までもサクラと共に」
「……」

 ……駄目だ。
 わたしじゃあ、駄目だ。
 わたしの言葉じゃ、桜の心には届かない。
 そしてわたしは殺される。
 桜も死んで、きっとライダーも死を選ぶ。
 つまりは、全てがこれで終わりだ。
 八年前のあの時を乗り越えた挙げ句が、このザマとは……
 わたしは、あらためて思い知る。
 わたしでは桜を救えない事を。

「ではリン、申し訳ありませんが……サクラ! 士郎が何かを投影しました!」
「嘘ッ!? だって、今の先輩がそんな事をしたら……!」
「あれは――――あの時サクラに使った、契約破りの短剣!!」

 そう、何時だって桜を救うのは士郎だった。

「そんな! じゃあ……!」
「マズイ、破られ……!?
 ……いえ、大丈夫でした。どうやらアレは、宝具には通用しないようです」
「そうなんだ……良かったあ」
「ええ、本当に……ご安心を、サクラ。士郎は無事です。士郎の投影した宝具も消滅しました」
「本当に良かった……ライダー、姉さんを今すぐ……」
「馬鹿なッ! 士郎がまた同じ物を投影した!」
「そんな!? 二度もそんな事したら、先輩が……!」
「いえ、やはり宝具には通用せず消滅……サクラ、士郎がまた投影を……!
 そんな、シロウッ!!?
 サクラ、シロウが血を吐いた! これ以上は……!」
「解いてライダー!! 早く! 早く結界を解いて!! 先輩が! 先輩が……ッ!!」



 ここから先は、かい摘んで話そう。



 ライダーに支えられ居間に現れた士郎は正に半死半生といった具合で、胸元は自分で吐いたのであろう血で染まっていた。
 そんなヘロヘロの士郎だったが、わたし達の有様に気付くと何はさて置きわたし達を気遣った。
 さすがというか、何というか。
 らしいといえばらしいのだが、まずは自分を気遣えと実は言いたかったりする。
 何にせよ、わたしからの電話を受けた士郎は、電話を掛けてきたわたしが通話状態のまま何も話さない事に、不審を覚えたらしい。
 また今朝の電話での話に嫌な予感を覚え、仕事は早退していたとの事。
 そして急ぎ家に戻ってみれば、家にはライダーの宝具が展開されていた。
 士郎は、桜が誰かに襲われていると勘違いしたようだ。
 故に、無茶を繰り返した。
 その結果が、士郎の血染め姿という訳である。
 さすがに今は、襲われた訳ではないと気付いたようだが。

 士郎は桜に何が起こったのかを尋ねるが、桜は俯いたまま話さない。
 桜は士郎を出迎えもせず、先程から正座の格好のまま動かない。
 見れば顔は蒼白で、全身をカタカタと震わせながら硬く両の拳を握り締め、宙の一点をひたすら凝視している。
 士郎は、わたしやライダーに視線を移したものの、俺は桜から話を聞きたいと、優しく根気良く桜を促す。
 やがて桜は、ぽつりぽつりと語り出した。

 概ね事実の通りの事を、桜は話した。
 聞き終えた士郎は、まずライダーを叱った。
 声を荒げた訳ではないが、とても厳しい顔だった。
 長い付き合いだが、わたしは士郎のあんな顔を見た事がない。
 正直、怖いとさえ思った。
 それは、あのライダーすらも同じだったのだろう。
 少し震えた声で、ライダーは謝罪する。
 申し訳ありませんでした、と。

 しかし、士郎は許さない。
 桜が間違っていたのは分かっているのだろうと、ライダーを問い詰める。
 ライダーは重ねて謝罪する。
 それでも士郎は追及を止めない。
 謝って欲しい訳じゃないと。
 何故止めなかったかを聞いていると、士郎は尚も問い詰める。
 あやふやな答えを、士郎は許さなかった。
 だがライダーは謝罪の言葉を重ねるだけ。
 士郎は言った。
 ライダーは俺達の家族だろ、と。
 家族なら、家族が間違っていたなら止めなきゃ駄目だと、士郎は真摯にライダーを叱った。
 ライダーは、その言葉に打ちひしがれたように身体を震わせる。
 そして搾り出したような声で、謝罪の言葉を再び口にした。
 何度も何度も口にした。
 謝る事しか、彼女には出来なかった。

 桜は未だに正座をしたまま、俯き黙り込んでいる。
 肌の溶け落ちた手が、やけに痛々しい。
 そんな桜に、士郎は立てと簡潔に言った。
 顔を伏せたまま、桜はおずおずと立ち上がる。
 しかし、決して士郎とは目を合わせない。
 すると、バチンと良い音が居間に響いた。
 桜の頬を、士郎が引っぱたいたのである。
 この世の終わりのような顔をした桜が、腰から崩れ落ちる。
 桜にとっては、真実この世の終わりである。
 だが桜が崩れ落ちる前に、士郎がすかさず抱きとめる。
 そして、言ったのだ。

 養子を取ろうと。
 子供は養子で良いじゃないかと。

 でもと桜は尚も言い募ろうとするが、士郎が止める。
 俺だって養子だぞと。
 優しくも暖かな声音であった。
 桜は、泣いた。
 只々、泣いた。
 無論その涙は、嬉しい故の涙である。

 暫くしてから、士郎がわたしに視線を向けた。
 そして、言った。
 桜以外の女性を抱く気は無いと。
 その言葉を聞いて、わたしは悟る。
 嗚呼、わたしはいま士郎にフラれたんだなあ、と。

 こうしてわたしの八年越しの恋は、ようやく終わりを告げたのだった。





 以上が、世紀の姉妹喧嘩の顛末である。

「サクラも、大概狂っているわよねえ……」

 しみじみと、イリヤは呟いた。

「あんな事を退屈凌ぎに話す、リンもリンだけど」

 その他にも、キャスターの性悪さやギルガメッシュの倣岸さ、その他もろもろな事を聞いた。
 事のついでか、果てはそれぞれの世界でイリヤが死んだ後の事までもだ。
 おそらくはイリヤを牽制する為に、凜はわざわざ話したのだろう。
 というか、喧嘩の範疇を大いに逸脱している内容だった。
 イリヤの知らぬ事ではあるが、サーヴァントであるライダーにすら恐怖を覚えさせた程に。

 とにかく、こと士郎に関する事なら、桜は正気のまま狂う事がよく解った。
 つまりは、このまま自分一人が士郎に会いに行ったら、彼女は間違いなく己の敵となるだろう。
 そして、争う事となる。
 それでもイリヤは構わなかったが、

「さすがにシロウも許してくれないだろうなあ……サクラを■したら」

 慎二の時とは違う。
 少なくとも、桜がマスターであり聖杯戦争の参加者である事を、士郎が知ってからでなくては。
 そう、イリヤは考える。
 だからこそ、踏ん切りが付かない。
 しかも、今の自分は士郎にとって赤の他人なのだ。
 ウロウロと同じ場所での短い往復を、イリヤは未だに繰り返している。
 と、その時。
 実体化したバーサーカーが、いきなり巌のような剣を振るった。

 剣戟。
 轟音。
 そして、静寂。

 目をしぱしぱと瞬かせたイリヤが、ようやく事態を把握する。

「何だ、ランサーじゃない」

 ランサーの奇襲であった。
 不意の一撃を防がれ、一旦距離を取るランサー。
 無言のままに、彼は己の得物を構え直す。
 その姿に、イリヤはふと違和感を感じた。
 見れば、ランサーの顔からは余裕というものが感じらない。
 あの飄々とした雰囲気が霧散しており、彼らしくもなく随分と切羽詰った表情だ。
 考えれば、奇襲というのもらしくないのではないだろうか。

「どうしたのよ? らしくないわよ、そんな顔」

 だからイリヤは素直に問うた。
 しかしランサーは答えない。
 切迫した空気を纏ったまま、朱槍を隙無く構えている。
 その表情は、まるで何かに追い詰められているかのようだ。
 そしてランサーの背後には、隻腕の女が一人立っていた。

「あら、バゼットもいたのね」

 月を背にした、ランサー本来のマスター、バゼット・フラガ・マクレミッツ。
 その姿は、まるで幽鬼のようだった。
 彼女の顔が青褪めて見えるのは、月夜の所為だけではないだろう。

「良かったわね、無事に再契約出来て。腕ごと持って行かれたみたいだから、ちょっと心配しちゃったわよ」

 イリヤは気軽に軽口を叩く。
 しかし彼女は無言を保ち、殺気立つ目でイリヤを睨む。
 その目は実に血走っており、スーツの左袖が寂しげに揺れている。

「ふ〜ん、やる気なんだ。それは別に良いんだけど……」

 イリヤにとって、バゼットは身内とは言えないが、仲間とは言えるような言えないような。
 そんな微妙な間柄だった。
 だから、親切心からイリヤは言った。

「今日のところは大人しく引き上げたら? いくら魔術(ルーン)で傷を塞ごうと、流した血は元に戻らないんだから」

 その言葉にバゼットがぎしりと歯を鳴らす。
 今の彼女に一切の余裕は無い。
 故に、侮辱と受け取った。

「貴様は今、ここで死ねッ!!」

 その言葉を受け、蒼い獣が鉛色の巨人に再度襲い掛かった。
 さあ、殺し合いを始めよう。



続く
2007/6/22
By いんちょ


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