大団円を目指して



第2話 「現実」







月のない夜だった。



降りしきる雨の中を、遠坂凛は一心不乱に走っていた。

傘も差さずに走るその姿は、余裕の無さの表れであろう。

街灯のみが照らす道は暗く、所々に出来た水溜りを走り抜けるたび凛の足元が汚れていく。

しかしそんな事には構わずに、気付きもせずに遠坂凛は走り続けた。


やがて限界を超えたのか、足がもつれる。

アスファルトの上を転がり、水溜りに顔から突っ込んでしまう。

顔が、髪が、服が、汚れた水にまみれる。

アスファルトに擦れた肌から、血が滲み出す。

さすがに限界だったのか、凛は息を()いた。


一つ。

二つ。

三つ。


三度、呼吸を繰り返す。

そして、何事も無かったかの様に立ち上がり、再び走り出す。

濡れそぼった身体ではあるが、凛は寒さを感じていない。

感じる余裕など、無い。



遠坂凛は、衛宮邸へ向け、只ひたすらに走っていた。





その時、彼女の視界に女が映る。

目の前を、一人の女が、彼女と同じ様に走っている。


凛以上に、ひたむきに。

寝間着のまま。

凛以上に、懸命に。

裸足のまま。

わき目も振らず。

濡れた寝間着は透けていて。

ただ必死に。

アスファルトで切れた裸足は血に塗れていて。


一途に走る女がいた。


「桜ッ!」


叫ぶかの様に、凛が女の名前を呼ぶ。

その声に聞き覚えがあったのか、その声音に何かを感じたのか、女が足を止め振り向く。


「姉さんッ!!?」



互いに平行世界の記憶を持つ、姉妹の再会であった。







「桜………何であんた、ここに?」


息も荒いまま、まず姉が口火を切った。


「姉さんこそ………」


妹は、疑問に疑問を返す事で、それに答える。

二人は、互いを(いぶか)しがっていた。

自分が今ここにいるのは、あの夢を見たからこそ。

愛しき男が、たった独りで死ぬ夢を見たからこそ。


夜も更けた時間であり、女が一人で出歩く時間ではない。

だからこそ、相手がここにいるのは疑問であった。


ある程度の、想像は出来る。

途方も無く現実味の無い空想に近い物ではあるが、その生きた証拠が自分である。

ならば、妹の身にソレが起こったとしても、あり得ない事ではない。

ない事もない。

凛は、そう考えた。

何より、この時期(・・・・)に妹が自分の事を姉と呼んでいる。

つまりは、そういう事だろう。


しかし、迂闊な事は言えない。

自分の想像通りなら、桜の心臓には、未だ臓硯が寄生している筈だから。

故に、凛からは何も言えない。

言い出せない。


「まさか……姉さんも見たんですか………あの夢」


凛は、息を呑んだ。

予想はしていても、確信していた訳ではない。

そもそも、自分以外に平行世界の記憶を持つ人間がいるなど、思いもよらなかったのだ。

これは、いよいよ異常な事態である。


しかし、そんな事を言っている場合では無い。

今は、何より士郎の事だ。

どうせ、本当の事は誰にも分からない。

推測は出来ても、確証は得られない。


桜の事も、後で良い。

今の時期なら、臓硯もまだ表立っては動かない筈。


ならば、今しなければならない事をすれば良い。


「そう、桜も見たのね」

「ッ!!?」

「先、行くわよッ!」


姉がそう言い捨てて、走り出す。

行き先も、告げずに。


「あ、待って下さい、姉さんッ!」


妹も、姉を追って走り出す。

行き先も、訊かずに。


訊く必要は、無かった。



二人の想いは、一つなのだから。







衛宮邸までは、もうすぐだ。

もう、すぐなのだ。

あと少し。

あと、ほんの少しで士郎に会える。

二人の顔には、我知らず笑みが浮かんでいた。


その時、轟音がした。

隕石でも落ちたかのような、激しい音だった。

地響きと共に、地面が揺れる。

思わぬ事態に、体制を崩す二人。


「キャッ!」
「何ッ!?」


揺れは、すぐに治まった。

しかし、二人の心の揺れは治まらない。


「士郎の家の方よ!」

「先輩!」


二人は、走り出す。

衛宮邸へ向かって。


そして、ソレが視界に入った。


「嘘………」


(えぐ)れた地面の上に、ソレはいた。

巨大なナニカが、そこにはいた。

灰色の異形。

この世に在ってはならない、モノ。

ソレは正に、死そのものだった。










「―――初めまして、かしら? リン」










具現化した死(バーサーカー)を従えた、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンが、そこにいた。










―――マズイ。


凛の額に、冷たい汗がふつふつと湧き出し一筋流れた。

いま自分は、サーヴァントを呼び出していない。

そして、自分ではバーサーカーに勝てない。

絶対に、勝てない。

当たり前の話である。

人間が、サーヴァントに勝てる訳などないのだから。


ならば、逃げられるのか。

これも、無理だ。

断じて、無理だ。

自分だけなら、万に一つ―――

億でも兆でも京でも良いが、とにかくゼロではない可能性に賭け、逃げられる………

かもしれない。


けれど、ここには桜がいる。

そして、桜は逃げないだろう。

衛宮邸は、もう目の前なのだから。


桜を見捨てるのは、論外。

これは、魔術師以前に、遠坂凛としての矜持である。


あの時。

桜を刺そうとして、刺せなかった時。

桜を殺せなかった、あの時。

二度と桜を捨てないと、決めたのだ。

逃げるなら、桜と共に逃げる。

あるいは、逃がす。

これは、大前提だ。


しかし、どう逃げる様に言っても、桜はけっして逃げないだろう。

視線を落とし、俯いたまま、ただ首を横に振るだけだろう。

桜とは、そういう女だ。



それにしてもと、凛は思う。

イリヤは、平行世界の記憶を持っているのだろうか。

桜は、記憶を持っていた。

確認こそしてはいないが、おそらく間違いないだろう。


ならば、イリヤは?

イリヤも、記憶を持っているのだろうか。

持っているならば、良い。

自分をビビらせた罰に、頭をポカリと殴ってやって、それで終わりだ。

しかし、そんな事があり得るのだろうか。

凛は己に問い、そしてすぐに答えは出る。


あり得ない。


魔術師として、凛はそう答えを出す。

自分が平行世界全ての記憶を持ち今ここにいる事自体が、奇跡―――いや奇蹟である。

そして、桜も記憶を持っていた。

奇蹟の二乗である。

この上イリヤまでもが、記憶を持っていたとしたら。

もう、奇蹟の大安売りである。


故に、あり得ない。

あってたまるか、と言いたい。


奇蹟とは、起こらないからこそ奇蹟と呼ぶのだ。

その事を、凛は良く知っている。

だからこそ、士郎は死んだのだから。


ここまでの事を、凛は一瞬の内に思考する。


いずれにせよ、イリヤは記憶を持っていないと仮定しよう。

そもそも、持っていた場合の事を考えるのは、無意味だ。

では、どうすれば良いのだろうか。

凛は、再び思考する。


―――まいった、手詰まりだわ。


どうにもこうにも、打つ手が無い。

桜を逃がす事すら、出来そうにない。

こんな所で、自分と桜は死ぬのだろうか。



―――こんな所で………………………



冗談じゃない!

冗談じゃないわよッ!

こんな所で、死んでたまるもんかッ!!

わたしは必ず士郎に会って、そしてあいつとハッピーに………!





―――――――――あれ?





ふと、違和感を感じた。



わたし、なに言ってんだろ?

士郎は、桜の恋人なのに。

士郎とハッピーになるのは、桜なのに。

わたしの出る幕なんか、無いのに。


―――でも、わたしだって………………



凛は、チラリと桜を見る。

すると桜は、










「イリヤさんも、先輩に会いに来たんですか?」










などと、ノンキに言ってくれやがりました。





「さ、桜ァッ!!?」





今までの思考が、ぶっ飛んだ。

良く分からないが、桜の今の態度は間違っている。

魔術師として、はなはだすこぶる極めて間違っている。

姉として魔術師として、凛は桜に文句を言おうとしたが、










「な〜んだ。リンとサクラにもあるのね、記憶?」











「嘘ォッ!!!?」











などと、イリヤものほほんと言ってくれやがりましたとさ。










こういう気分を、ぎゃふんって言うのかしらね………










ぐうの音も出ない、凛であった。







「で、一応確認しとくけど………」


疲れた様に、凛が言った。


「記憶? あるわよ、わたしにも」

「げ、マジ?」

「………あの」

「マジよ。消えていなさい、バーサーカー」


バーサーカーが、霊体となり姿を消す。


「どうでも良いけど………あんた、落ち着いてるわね」


不可解といった感じで、凛が問う。

実際、凛にとってイリヤの落ち着き振りは、不可解であった。


自分が、この状態に気付いた時。


―――平行世界の記憶全てを持つ事に、気付いた時。

―――今現在が、聖杯戦争の始まる前だと気付いた時。

―――時を(さかのぼ)ったとしか思えない事実に、気付いた時。


落ち着いてなんか、いられなかった。

ハッキリ言えば、パニクッた。

士郎の事しか、考えられなくなったのだ。


それに比べて、イリヤのこの落ち着き振りはどうだろう。

見た感じ、とても冷静ではないか。


「魔術師たる者、常に冷静に。でしょ?」

「あの………」


しかも、フフンと髪をかき上げながら、偉そうに言われてしまったではないか。


「ま、しょうがないわよね。うん、気持ちは分からないでもないし」

「あの、イリヤさん………?」


あまつさえ、分かった様な事まで言われてしまったではないか。


まるで、自分が三下である。


さすがに、ムカッときた。

物凄く馬鹿にされた気がした。

だから、さっきの仕返しも含めて、イリヤの頭をポカリと殴ってやった。


ざまあみろ。


「いった〜い! 何すんのよ、リン!?」

「それより、何よこれ?」

「あの、姉さん………?」


話を逸らすかの様に、凛がバーサーカーの立っていた地面を指す。

そこは、誤魔化し様もない位キッチリと見事に抉れていた。


「………しょうがないじゃない。急いでたんだから」


そっぽを向きながら、不機嫌そうにイリヤが言った。



勝機ッ!!



「ああ、バーサーカーが着地した後なのね、これ」


含んだ調子で、凛が言う。

何もかも分かっているのよ〜、ってな具合に。


「い、良いでしょ! 後でちゃんと直しておくわよッ!」


ほ〜ら、やっぱりうろたえた。


そう、分かってしまえば何の事はない。

結局、イリヤも焦っていたのだ。

混乱していたのだ。

士郎に会いたかったのだ。

魔術師としてはあるまじき、こんな証拠を残す位に。


凛の顔に、あくまの笑みが浮かぶ。


そうと分かれば、後はキッチリ仕返しをするだけである。

さっき一発殴ってやったが、あんなものでは全然足りない。

魔術師とは、全てにおいて等価交換なのだ。

クックックッ………


「はいはい。イリヤは急いでいただけなのよね」

「そうよ! それだけの………!」

「その時の音、凄かったけど」

「クッ………」

「轟音って言うのかしらね? 地面まで揺れたもの。

 バーサーカーの着地した音、絶対周りにも聞こえていたわよ?」

「………どうでも良いわよ、そんな事」

「あらあら、とっても素敵な台詞。ホント、イリヤらしいわ。魔術師らしくはないけれど」

「何よッ! リンだって………!!」

「魔術師たる者、常に冷静に、か。全くその通りよね、うんうん」

「姉さん、それ位に………」

「う、うるさいわねッ! 大体リンが………ッ!!」

「自分の事は棚に上げる、その態度。魔術師として、わたしも見習わなきゃだわ」

「イリヤさんも、落ち着いて………」


「何よッ!
 リンなんか、バーサーカーに
 ブルブル震えてた癖にッ!!!」

「ハァッ!? 何ですってェ!?
 震えてたァ!? ブルブルとォ!!?
 このわたしがァッ!!!?」


「………」



「あらあら、強がっちゃって」


イリヤはそう言うと、スカートの裾を持ち上げ、優雅にお辞儀をした。


「ごめんなさい、リン。

 まさか、凛ともあろう者があんなに怖がるとは、思ってもみなかったのよ。

 これは、リンを見誤ったわたしのミスね。謝罪するわ」

「怖がってなんか無いわよッ!!」

「はいはい。強がりは美徳と言えなくもないけど、無理しても滑稽なだけよ?」

「……言ってくれるじゃない、このクソガキ………」


凛が、静かに構える。


「………リンには、負けるけどね」


イリヤが、音も無く構える。


くだらなくも異様な緊張感が、辺りを包んだ。





と、その時。





「いい加減にして下さいッ!!!」





桜が、怒った。

そりゃあもう、ビックリする程。


「え………?」
「え………?」



「ケンカなんか
 してる場合じゃ
 無いんですッ!!!」





「さ、桜?」
「サ、サクラ?」





「もう、二人共
 知りませんッ!!!!」





そう言い捨てると、桜は衛宮邸に向かって走り出した。

二人を置いて。


「あ………ちょ、ちょっと待ちなさいよ、サクラァー!?

 シロウに会うのは、わたしが先なんだからァーッ!!」


イリヤも、続いて走り出した。





「………………………あー、ビックリした」


凛は、一人置いてけぼりだった。

やれやれである。


―――こういう所、桜にはかなわないわね。


クスリと笑いながら、凛はそんな事を思った。

そして、走り出す。

桜とイリヤを追って。

士郎に会いに行く為に。



恐れるものは、もう何も無かった。







凛が、桜とイリヤに追い付いた時、二人は衛宮邸の玄関の前で固まっていた。

呼び鈴を押す勇気が足りないのだろう。


―――全く、しょうがないわね。


「何よ、押さないの?」

「………」
「………」


踏ん切りが付かない様子である。


「わたしが、押そっか?』


「わたしが押しますッ!」
「わたしが押すわよッ!」


凛に背中を押され、ようやく決心が付いたらしい。

二人は、おそるおそると呼び鈴に指を伸ばす。

その時、いきなり玄関が開いた。










「あれ、桜か?」










瞬間、時が止まった。










桜は、動けない。

イリヤも、動けない。

凛ですら、動けなかった。


暫し固まる、三人。

しかし、時はすぐに動き出す。


「うわッ!? 桜、何て格好してんだ、おまえッ!!?」


衛宮士郎の声によって。


夜も更けた時間である。

また、三人の格好はずぶ濡れであった。

士郎が驚くのも、当然と言えよう。


ましてや、桜は寝間着のままだ。

しっかり、下着が透けている。

士郎の顔が真っ赤であるのも、当然と言えよう。


そして、その顔を見た時、三人にかけられていた呪縛はあっさりと解けた。





             先輩は先輩だ。
――――――嗚呼、やっぱり士郎は士郎だ。
             シロウはシロウだ。





「ちょ、ちょっと待ってろ、すぐにタオルを………!」


「先輩ッ!!!!」
「シロウッ!!!!」


感極まった桜とイリヤが、士郎の胸に跳び込んだ。


「グアッ!?」


飛び付かれ二人の勢いに押されるも、何とか倒れず踏ん張る士郎。


「お、倒れずに頑張ったわね。偉い、偉い」


なんて偉そうに言うのは、内心『出遅れちゃったなァ』とか思っている、凛である。


「え………あれ、遠坂? 何で、ここに?」

「桜とイリヤが、ここにいるのよ? だったら、わたしがいるのも当然でしょ?」

「なんでさ?」

「あのねェ………」


などと呆れた様に言ってはいるが、心の中はバラ色である。


これで、全ての不安が無くなった。

士郎は、今ここにいる。

生きてる士郎が、ここにいる。

それだけで、良かった。


だから、全ては上手く行く。

否、全てを上手く行かせるのだ。


士郎は、死なせない。

絶対、死なせない。

ついでに、イリヤも助けてやろう。

そう、大切な人達は、みんな助けるのだ。

そして、みんなでハッピーになるのだ。


主に、わたしとか。

何てね。


そんなバラ色の未来を、凛は思い浮かべた。





「遠坂」


凛が、頭の中でとても人には言えないバラ色の未来というか桃色の未来というよりは妄想というべきか

はたまた空想とも言うべき事を思い浮かべていると、士郎が二人を抱きとめたまま声を掛けてきた。

桜とイリヤは、未だ士郎に抱き付くというかしがみ付いている。

二人は、とても幸せそうだ。


「何よ?」


少しだけムカッとしながら、返事をする凛。

すると、士郎が不思議そうに言った。










「この()は、誰なんだ?」










瞬間、時が凍りついた。










「………え?」

「………先輩?」

「………何?」










「遠坂の知り合いか?」










士郎に、平行世界の記憶は無かった。











続く


2004/11/5


By いんちょ



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